「軍都」壊滅2 マレー戦2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 現在はマレーシアの国土であるマレー半島、そしてシンガポール共和国のあるシンガポール島などは当時イギリスが植民地支配し、特にシンガポール島はイギリスの東アジアにおける軍事拠点のひとつだった。

 第二次世界大戦が始まってドイツがヨーロッパで圧倒的な優勢を誇ると、日本はドイツとの結びつきを強め、アメリカ、イギリスとの戦争を覚悟のうえで欧米の植民地がある東南アジアに侵攻し石油などの資源を確保しようと企てた。1941年12月8日、まず日本陸軍がシンガポール制圧をめざして英領マレー半島への上陸作戦を開始し、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。

 「マレー作戦」に参加した陸軍は山下泰文を司令官とする「第25軍」。その配下は第5師団、近衛師団、第18師団、それにいくつかの戦車団、砲兵連隊、工兵連隊が加わるという大規模なものだった。1942年出版の『大東亜戦史 マレー作戦』は、マレー半島に向かう日本の大輸送船団の雄姿をこのように描写している。

 

 濛々として船団の吐き出す黒煙は南海の空を蔽ひ、或は洋上を包む。これを護衛するものには左右に舳艪(じくろ)相ふくんで波濤を蹴立てゝゐるわが艨艟(もうどう 軍艦)、空には日の丸を鵬翼に輝かしつゝ旋回する友軍機、まことに壮観極まりなき大渡洋作戦図絵が繰り展げられたのであつた。(『大東亜戦史 マレー作戦』朝日新聞社1942) 

 

 要するに海軍の護衛艦と哨戒機に守られて日本陸軍の大輸送船団の堂々たる航海だったと、まるで「平家物語」でも読ませるかのように新聞記者は健筆をふるったのだ。

 しかし現実はなかなか厳しい。第5師団の場合16隻の大型輸送船に乗りこみ11月15日から20日にかけて順次上海を出港、11月30日にいったん中国最南端の海南(ハイナン)島に集結した。上海を出るときは冬なのに夏服を着せられてブルブルふるえていたが、海南島まで来るとそこはもう熱帯だ。第5師団歩兵第41連隊のある軍曹の従軍日記にはこのようなことが書かれてある。

 

 輸送船内はとても高温で、汗と油で汚れた兵隊たちは、褌一つになって、まっ黒いタオルで流れる汗をぬぐい、破れて骨の出た日の丸扇子で風を送っている。

 やり切れない暑さだ。(御田重宝『人間の記録 マレー戦』徳間書店1977)

 

  「マレー作戦」に使われた輸送船はどれも大型だったが、それでも、畳2枚分(1坪)の広さに3人の兵士が詰めこまれたと『人間の記録 マレー戦』に書かれてある。これについては堀川惠子さんの『暁の宇品』に次の説明があった。

 

 …船倉の兵室に備えられた蚕棚のようなベッドに全員が収まることはまれで、あぶれた者は交代で床に転がるしかなかった。しかも一般の兵士は上陸地点に到達するまでデッキに上ることが許されない。(堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』講談社2021)

 

 これが実態だったのだろう。そしてその後の輸送作戦に使われた小型船では、兵士はさらに詰めこまれ、ぎゅうぎゅう詰にされたという。