ヒロシマの記憶61 科学者の訴え8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 物理学者で東工大名誉教授の山崎正勝さんが、広島、長崎の惨状をその目で見た仁科芳雄の思いを今に伝えている。

 

 …自分は小高い丘の上から広島や長崎の光景を見下して、これがたゞ一個の爆弾の所為であるという事実を、今更しみじみと心の底に体得し、深い溜息の出るのをどうすることもできなかった。そして戦争はするものではない。どうしても戦争は止めなければならぬと思った。(仁科芳雄「原子力の管理」『改造』1946 山崎正勝「平和問題と原子力:物理学者はどう向き合ってきたのか」『日本物理学会誌 No.12』2016)

 

 ノーベル賞受賞で知られる湯川秀樹は、京都帝大で原子爆弾を研究する「F研究」に参加している。広島に原爆が落とされたのは8月7日に知り、広島で調査に当たった「F研究」の責任者荒勝文策から13日に現地の様子を聞いた。(「湯川日記」京都大学基礎物理学研究所湯川記念館史料室)

 そして湯川は戦争が終わってからしばらく「沈思と反省」の日々を送る。出した結論は、「戦争は常に人類の幸福の破壊者である」というものだった。(小沼通二「湯川・朝永の平和運動」『日本物理学会誌Vol61 No.12』2006)

 1948年、湯川秀樹と妻のスミさんはアメリカでアインシュタインと会った。

 

 ある日、湯川夫妻を部屋に招いた白髪の科学者は、顔を見るなり2人の手を握って言った。「自分がナチスの原爆開発を恐れ、米大統領に原爆開発を進言したばかりに、憎いヒトラーでなく罪のない日本人を殺傷してしまった」。涙を流してわびる姿が、スミさんの記憶から消えない。(「中国新聞」1995.5.14)

 

 それから湯川秀樹とアインシュタインは手を取りあって、核のない世界、戦争のない世界をつくる運動にまい進したのだった。

 庄野直美も反核平和運動に取り組んだ理論物理学者として知られる。庄野直美はこう訴えた。「いまや、自然法則の根源に迫る科学ほど、その悪用は人間の根源的破壊につながる」と。(庄野直美『人間に未来はあるのか』勁草書房1982)

 科学者として研究を重ねたら将来人類の破滅に手を貸すことになってしまう。そんなつらい思いがアインシュタイン、湯川秀樹らを平和運動の先頭に立たせたのだろう。それは三村剛昂も同じではなかったか。

 三村は1952年の日本学術会議総会で、原子力平和利用の調査委員会設置を政府に勧告する提案に対して、「米ソの緊張が解けるまで日本は絶対に原子力を研究してはならぬ」と主張した。三村はその理由についてこう述べている。

 

 「原子力の平和的利用」が盛んになって地上に楽園ができる態勢になっても原水爆の製造、所有、使用の禁止に成功しなければ、地上の楽園は噴火山上の舞踏と同じで、いつ二十世紀のネロ達の気まぐれのために、人類の最大不幸が訪れるか判らぬ。(三村剛昂「原・水爆と原子炉」『学校教育』454号1955)

 

 1965年に三村剛昂は67歳でこの世を去ったが、湯川秀樹が伝える三村の次の言葉もまた、今もその価値を失っていない。

 

 「原子爆弾や水素爆弾による殺人法が残虐無比のものであることを知っていて、なおかつこれらを武器として使用することを止めないのであれば、『人道』という言葉はこの世から抹殺した方がよい」(湯川秀樹他編著『核時代を超える―平和の創造をめざして―』岩波書店1968 )

 

 三村剛昂、湯川秀樹、アインシュタイン…。多くの科学者が戦争中に自らが行ったことについて沈思反省し、そこから世界に訴えた反核平和は、今も将来も、忘れされていいはずはない。