ヒロシマの記憶46 見えない恐怖7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島逓信病院では吐き気や下痢の症状はすぐに消えていった。それで赤痢の疑惑も晴れたのだが、それが急性放射線障害の潜伏期間だったことは当時誰も知るはずはなかった。

 8月18日、小林さんという19歳の女性が逓信病院に入院した。小林さんは爆心地から700m離れた八丁堀の路上で被爆し、避難する途中で数回嘔吐した。それから3日間はひどい倦怠感、食欲不振、下痢に悩まされた。それが少し良くなったと思ったら18日になって再び悪化し、全身に小指の頭ぐらいの大きさの皮下出血斑が出てきたのだ。入院した時は髪の毛も全部抜け落ちていた。逓信病院院長の蜂谷道彦は思わず自分の髪の毛を引っぱった。

 8月22日、小林さんは39度の発熱。衰弱がひどいうえに喉と腹部の痛みに苦悶している。血の斑点は大小無数に現れていた。そのころには爆心地近くで被爆すると白血球が極度に減少することも確認された。

 小林さんが息を引き取ったのは26日。死因を確かめるため解剖が行われた。すると、肝臓や胃腸にも出血斑が見られ、腹腔には大量の血がたまっていた。

 

 私は死体解剖を見て痛んだゆえんがわかった。胃腸や肝臓腹膜の粘膜下出血斑をみて、斑点は体の表面ばかりではない、五臓六腑体中どこでもでていることがわかった。私は解剖を見学して恐るべきは斑点だ、斑点が体の中の主要部へただ一個できても最後だと思った。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 そして体内にたまった血液が凝固していないことから、白血球だけでなく血小板も検査しなければならないことに蜂谷道彦は気がついた。血小板がなくなったら体全体から出血するのも当然である。

 爆心地から700m離れた屋外での被爆なら浴びた放射線は間違いなく致死量を超えている。しかし蜂谷道彦がこうした血液の障害は原爆の放射線によるものと知ったのは9月3日、東京帝大医学部教授都築正男の講演を聞いてのことだった。それまでの蜂谷道彦の原爆の知識と言えば、「十グラムも水素があればサイパン島が二つに割れてなくなる」(『ヒロシマ日記』)といった不確かなものでしかなかったのだ。

 しかし放射線が原因とわかっても、それでどんな治療ができただろう。東大医学部付属病院は臨界事故で被曝した大内さんに造血幹細胞の移植を試みたが、うまくいかなかった。まして何十人、何百人、何千人という被爆者に対して、現代であっても果たしてどれほどのことができるだろうか。

 蜂谷道彦は新聞に寄稿して「白血球が減っておれば正常に戻るまで静養し、腹いっぱい御馳走を食べる必要がある」と書いた。それしかなかったのだ。そして「腹いっぱい御馳走を食べる」ことのできた人など当時の広島ではごくまれだった。

 岡山医科大学の学生だった杉原芳夫さんは9月上旬に救援隊の一員として広島逓信病院に入った。仕事は解剖の手伝いや患者の血液検査だった。

 

 あるとき私の前に立った婦人の白血球は二五〇〇以下におちていました。その蒼白な顔には点々と小出血斑が見られました。

 「体をできるだけ安静にして、なるべく肉や魚、それに新鮮な野菜と果物をたっぷり食べねばいけません」

 「そんなことを言われても、私が働かなかったら、誰がいったい子供たちに食べさせてやるのですか」

 小さいが怒ったような声に、私は黙り込みました。(杉原芳夫「病理学者の怒り」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書1965)