ヒロシマの記憶44 見えない恐怖5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島で原爆に遭った人たちの放射線の被害はどのように記憶されているだろうか。原民喜の日記「原爆被災時のノート」から放射線が関係していそうな出来事を抜き出してみよう。

 8月6日、泉邸(縮景園)裏の川岸で「黒い雨」が降ったころ、原民喜は「川ヲミテハキ気ヲ催ス人」と記している。東海村の臨界事故で命を絶たれた大内久さんも被曝直後に嘔吐しているので、原爆に遭った後の「吐き気」も放射線の影響が考えられる。けれどその時の民喜は「吐き気」に特に興味があったわけではないようで、小説「夏の花」にも出てこない。

 それは、原民喜自身に吐き気がなかったためではなかろうか。原爆に遭っても人によって吐き気があったり無かったり。その理由ははっきりしないが、興味深いのは民喜が持ち出したカバンの中身だ。

 

 繃帯、脱脂綿、メンソレータム、ヒロポン、ズルファミン剤、オートミイルの缶入、炒米、万年筆、小刀、鉛筆、手帳、夏シャツ、手拭、縫糸、針、ちり紙、煙草、マッチ、郵便貯金通帳、ハガキ、印鑑

 これだけが、うまく詰めこんであった。(原民喜「原爆回想」青空文庫)

 

 ヒロポンは覚せい剤。原民喜のエッセイ「原爆回想」には、泉邸裏に避難して川岸に腰を下ろした時に5粒飲んだとある。それで吐き気がしなかったのかどうかはわからないが、6日に民喜が人助けをがんばる元気があったのは、これのせいだったのかもと思えてきた。

 ただし、原民喜は自分が6日に何か食べたとか、腹が減ったとかは書いていない。6日の夕方になって民喜は筏を漕いで向こう岸に渡ったのだが、そこでは脱線した貨物列車からこぼれ落ちた玉ねぎを焼いて食べている人たちがいた(「原爆回想」)。民喜も玉ねぎを川べりで拾っているのだが、それをその日に食べたかどうかまでは書かれていない。(特に「夏の花」には食べ物の話は全く出てこない)

 7日になると食べ物のことが出てくる。「原爆被災時のノート」には、朝になって川岸で炊いた飯をもらったとあり、これは食べたのではなかろうか。その日は救援の握飯も配られ、長兄の経営する原製作所の職員もむすびを持ってきてくれた。

 でも、それだけでは足らなかったようだ。民喜らは7日夕方には疲労と空腹でへとへとだったと「原爆回想」に書いている。空腹感を覚えていたのだ。

 民喜は亡き妻貞恵が残してくれたミルクと砂糖の入った「オートミイル」の缶詰を開けた。それは民喜の次兄に「こんなにおいしいものが世の中にあるのか」と言わせた(「原爆回想」)。どうも民喜ら原家の人々は嘔吐とは無縁だったようだ。

 けれど、別の心配があった。その7日、民喜らのいる広島東照宮のあたりは、「フン尿 蠅不潔カギリナシ」(「原爆被災時のノート」)という状況だったのだ。

 

 私たちはその翌日、東照宮の境内に避難して行つた。妹は私がズルファミン剤をもっていることを知ると、それを今服用しておいた方がいいのではないかと頻りにすすめる。そこで、私たちは念のためにそれを飲んでおいた。これも後になって考えてみると、原子爆弾症の予防になったのかもしれないようだ。(「原爆回想」)

 

 「ズルファミン剤」は抗菌薬。心配なのは下痢だった。