ヒロシマの記憶30 「きのこ雲」が消えるまで10 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

冬の京橋川

 泉邸や近くの河原には早くから多くの人が避難し、まだ動ける人は川を渡ってさらに北へ逃れていった。土田康(やす)さんもその中のひとりだ。土田さんは爆心地から北に1.5km離れたところにあった白島国民学校の先生だった。当時学校があったところは、今はNTTの高層ビルが建っている。

 学校は原爆の爆風で一瞬のうちに倒壊した。校舎には「本土決戦」のために編成された通称「赤穂部隊」の兵士がいたが、1階にいて圧し潰され皆即死に近い状態。2階の廊下にいた土田さんも気がついたら体の上にコンクリートの水槽がのっかっていて、後日診てもらったら腰椎にひびが入り、肩甲骨と肋骨3本が折れていた。そして逃げる途中、広島逓信病院で体に突き刺さったガラスを抜いてもらった時、医師は、「や、これは動脈へ半分食い込んでいる。大変な出血だ。下手をすると三時間位だぞ。」と言った。(土田康「きのこぐも」『広島原爆戦災誌』)

 そんな体でも必死で崩れた校舎の下から抜け出して学校の外に出ることができたのだが、すぐに白島の町一帯は炎に包まれた。

 佐伯綾子さんが白島で被爆し京橋川の河原に避難した時の様子を「原爆の絵」に描いている。8時40分ごろ、「"白島小学校が燃え出したぞー"と中町方面から逃げてきた人が叫びました。神田橋のたもとの方で煙りが上るのが見えました」と絵に書き添えている。(佐伯綾子「市民が描いた原爆の絵(昭和49、50年収集)」広島平和記念資料館)

 『広島原爆戦災誌』を見ても、白島地区では佐伯さんが書いているように8時40分ごろ、あちらこちらから火の手が上がったようだ。家が一軒焼けても熱いのに、町全体が焼けたらどんなに熱いか想像がつかない。どこまで逃げたらよいのだろう。しかもこの時、市内中心部では逃げ惑う多くの人がすでに原爆の熱線で皮膚を焼かれていた。

 

 白島一円はすでに火が廻り、私の家も玄関のあたりから煙が吹き出て燃え始めていた。破壊された家屋から飛び散って、空を覆っていた土ぼこりが静まったのか、再び顔を出した太陽がガンガン照りつけるのと、火災の熱気で、地上は溶鉱炉のように、灼熱の地獄の様相を呈していた。その路上を直射熱光線にあてられたのであろう、一糸まとわぬ裸の行列が続いていた。光線を受けた片半面が焼けただれて、理科室の標本の体でも見るような人もいた。(「きのこぐも」)

 

 土田さんは逓信病院で手当てを受けると、京橋川に架かる常葉(ときは)橋までやってきた。泉邸の300m北側にあるこの橋を渡れば町を抜けて山まで逃げることができる。しかし橋の周りはすでに火に包まれていた。川はまだ潮が満ちていて、川幅は100mぐらいはあっただろう。

 

  …常葉橋際にもすでに一段と大火が猛威をふるっていた。土手の官有地だけがまだ火がついていない。京橋川を渡って逃げるより方法がない。土手沿いの民家のわずかなすきまを抜けて、私は川縁へと出た。しかし意地悪く川は満潮時で、川幅一ぱいに水が流れていた。この体で、水かさの増したこの流れを泳ぎ切れるだろうか。 (「きのこぐも」)