ヒロシマの記憶9 フラッシュバーン4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島一中の片岡脩さんも「顔が二倍にも三倍にもふくれ上って一体誰だか見当さえつかなくなっている」と『原爆の子』に書いているが、自分の顔が西瓜みたいに大きく腫れあがるなど想像もつかないし、どうしてそうなるのかもよく分からない。けれど熱傷によって顔が腫れたことについては他にも証言する人がいるし、「原爆の絵」にも描かれている。

 谷口劼(かたし)さんからお話をうかがったのは2010年のこと。今はもうお話を聞くことはできない。

 谷口劼さんは6日の夜、弟で広島二中1年生の勲さんを捜してやっとのことで見つけた。しかしその顔を見れば、それが自分の弟だとは最初どうしても信じられなかった。

 

 すごい顔をしてね。こういうふうに膨れて、唇はひっくり返って、眼はつぶれて、頭の皮は全然ないし、顔の皮膚は全部めくれて手の皮膚もぶら下がったようになってね。お前は勲じゃないじゃろう、違うじゃろうと言ったら、いや違やあせんから連れて帰ってくれと…(五日市高校放送部テレビドキュメント番組『黒い雨が降った』2011)

 

 坂本潔さんは娘で市立第一高等女学校(市女)2年生の城子(むらこ)さんを探した。市女の1、2年生は材木町、今は平和公園南側の大通りあたりで建物疎開作業中に被爆して全滅した。潔さんが城子さんを見つけたのは午後6時過ぎ、作業場所から400mほど南にいったところにある万代橋の西詰だった。

 

 「ここよ」と言ったので私は降りて行ったんです。そしたら女の子が、顔がはれていて目は全くの一筋、頭の髪はほとんど無い。皮膚は剥げて全部たれさがっているのです。負うことができません。私の子で築山家へ養女にやっていたんです。「むら子ちゃん、いいね、お父さんがこられて…」と誰れかが言ったのが、今も私の耳に残っています。(『広島原爆戦災誌 第二巻』)

 

 勲さんは劼さんのお下がりのベルト、城子さんはモンペに縫い付けた名札が焼け残っていて本人と確認できた。誰も同じに見える膨れた顔では、自分であるという証を親や家族、友人が見つけてくれなければ、その場に一人朽ち果てるしかなかっただろう。

 北山二葉さんは幸運にも、腫れ上がった瞼の下から、避難する途中の姉の姿をその目に捉えることができた。姉のおかげで二葉さんは生き延びることができたのだ。

 だが、傷口はまるで熟したトマトが崩れたみたいで、なかなか治らなかった。年が明けてやっと包帯がとれたと思ったら、顔にも両手にも大きなケロイドができていた。顔は引きつり、指はくっついて動かない。それでも夫は原爆で死んでしまったので、二葉さんは自分ひとりの働きで3人の子を育てなければならなかった。

 北山二葉さんは手記の最後をこう締めくくっている。

 

 あの日から早や五年、みにくい不自由な体を恥じと屈辱に耐えながら、ただ哀れな子たちのために、ただそのために働きつづけている。(「あッ、落下傘だ」)

 

 原爆の閃光は人の体だけではない、その心まで焼いたのだった。