当時広島文理科大学の助教授だった小倉豊文さんが原爆に遭ったのは、爆心地から東に4kmほど離れた新大洲橋のたもとだった。ものすごい閃光と爆風。上空にはとてつもなく巨大な雲の塊。小倉さんは火薬庫の事故かと思った。アメリカ軍のB-29爆撃機が上空を飛んでいたのに気がつかなかったのだから、それしか思いつかなかったのだ。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)
しかし、B-29の爆音に気がついた人、銀色に光る機体を見た人は少なくなかったようだ。当時陸軍船舶練習部第十教育隊隊長で被爆直後の軍の救援活動を指揮した斉藤義雄さんは8月6日朝、家を出て広島駅北の山中を市内に向って歩いていた。
この日、空は一点の雲もなく晴れて暑かった。中山から尾長に越える峠道を登って行くと、B29 のいつもの特色のある唸り声が何処からか聞こえて来た。大編隊ではなく、二機か三機の音であった。空を見上げながら歩いていたが、快晴の空には何も見えない。
相当の高度のようであった。警報は解除されているのに、ブウーン、ブウーンと聞こえてくる唸り声に、何となく異状なものを感じた。(「被爆者救援活動の手記集(暁部隊) 」『広島原爆戦災誌 第5巻』)
軍人だから気がついたいう訳ではなく、『原爆の子』の子どもたちの作文を見てみると、B-29の音を聞いたと何人も書いている。たとえば当時国民学校6年だった笹井義明君。
僕は母につれられて日赤病院に行こうと家を出ました。すると飛行機の爆音がぶるんぶるんと聞こえてきます。警報が解除になっているのに変だなあと空を見上げると、太陽がギラギラと輝いている。気持が悪いほど晴れわたっている。真夏の青空をB29が三機、ピカピカと機体を輝かせながら飛び去って行きます。(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』岩波文庫)
8月5日の夜から6日の朝にかけて広島の人たちは大変だった。5日午後9時27分に空襲警報が発令され11時55分に解除されたが、6日午前0時25分にまた空襲警報が発令され、解除されたのは午前2時10分だった。そして6日朝7時9分には警戒発令が発令され、解除されたのが7時31分。誰もが眠い目をこすっていたに違いない。B-29の音に気がついた人は、その寝ぼけ眼で、どうして警報が出ていないのにB-29が飛んでいるのかと不思議がった。いや、気がついたけれど気にしない人も多かった。
宮田哲男さんは当時中学を出たばかりで、教員免許がないまま国民学校で教える助教(代用教員)をしていた。勤務先の狩小川国民学校(現 広島市安佐北区上深川町)は爆心地から北東に14km離れている。
突然遥か上空でB29の爆音がする。おそらく一機か二機だ。警報も出ていない。心配は要らぬ。昨夜の空襲の効果を確めに来たのだろうと、B29の偵察には慣れっこになっている私たちは、最初は別に気にもとめなかった(『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』)
しかし次の瞬間、宮田さんは異変を感じた。