戦争の足音73 伯父の戦争1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「1944に遭遇した家族」というmasahiroさんのブログで「昭和十八年度陸軍予科士官学校・幼年学校生徒志願者心得」を知ることができた。これによると1943年度の予科士官学校の出願期間は4月1日からで、9月20日から3日間の試験があった。私の伯父、精舎善明の頃も同様だろうから、1937年12月1日に正式に陸軍予科士官学校に入学した伯父は、遅くとも前年の中学3年時には陸軍将校を志していたことになる。

 1936年にはニ・二六事件がおきている。陸軍の青年将校がクーデタをおこした有名な事件だが、この事件によって当時一般民衆の間には反軍感情が高まったとある。

 

 近衛師団司令部「二・二六事件の学校職員、学生生徒に与へたる感想等調査」(部外秘、防衛庁戦史室蔵)は、「本事件が職員、学生生徒に対し深甚なる衝動を与へ、特に其大部分の者に対し多少の差はあるも反軍的陰影を与へ、少くも軍に対する信頼に動揺を生ぜしめたるは否む能はざる事実なり」という。(江口圭一『文庫判 昭和の歴史 第4巻 十五年戦争の開幕』小学館1988)

 

 それでも伯父は士官学校合格を目指して勉学に励んだのだ。

 ニ・二六事件の後、軍部にたてついたら命がいくつあっても足りないということで、国政は軍部の思うままとなり、戦争への道を突っ走っていった。半藤一利さんの『昭和史』にはこう書かれている。

 

 そして問題の昭和十二年となりました。

 作家の野上弥生子さん(一八八五~一九八五)が、年頭の新聞でこう書いています。

 「……たったひとつお願いごとをしたい。今年は豊年でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、……コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように……」

ということは、戦争待望論というか、昭和十二年になった段階で、日本には「中国を一撃すべし」の空気がかなり瀰漫(びまん)していたんじやないかと思うのです。(半藤一利『平凡社ライブラリー671 昭和史1926-1945』平凡社2009)

 

 不安は現実のものとなった。銃声が響いたのはその年、1937年7月7日の中国北京(「盧溝橋事件」)。現地の日本軍司令官の独断によって戦闘が拡大し、11日には近衛文麿内閣が「重大決意」をもって中国へ大軍を送ることを決定する。一撃を与えれば中国はすぐに屈服するだろうと甘く見ていたのだとか。こうして中国との泥沼の全面戦争が始まった。

 広島の第五師団は7月27日に緊急動員となり、平時の定員11,858人が25,179人に増員され、8月1日に宇品を出港し朝鮮半島を経由して北京に向かった。(広島市郷土資料館『広島市民と戦争』2015)

 私の地元にこんな話が残されている。現役兵が中国に向かった後のことだ。

 

 各町村在郷軍人会中には、満州事変従軍の勇士も多い。これらのものは腕を張り、肩をいからせ「さきに実戦に参加した俺達等を召集すればまだ一働きするが、最早俺等を召集もすまい。戦争とあれば行つて見たいなあ」と平素豪語した老兵達が召集令状を受けた。(名田富太郎『広島県山県郡史の研究』1952)

 

 本当に召集令状が来たら、妻も子もある男たちは大慌てをしたのだった。