戦争の足音69 学校と戦争11 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1938年に日本が「東亜新秩序」と称して中国侵略を正当化したことからアメリカとの関係が悪化し、さらに1941年に日本が東南アジアへ軍隊を送ると対立は決定的となった。そしてその年の12月8日、日本はマレー半島、ハワイに奇襲攻撃をおこなって太平洋戦争が始まった。

 1942年4月、広島女学院の院長に就任した松本卓夫は「如何なる官憲軍部の干渉があろうとも、基督教精神に基く女学院伝統の教育は、最後まで護り抜く」と決意を述べた。(広島女学院130年史編集委員会編『広島女学院130年史』広島女学院130年史刊行委員会2021)

 しかしそれは茨の道だった。1943年4月に高等女学部から高等女学校に改組が認可された際、学則第一条は「本校ハ中等学校令ニ由リ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ施シ皇国ノ道ニ則リテ貞淑敬虔ナル皇国女性ノ錬成ヲナスヲ以テ目的トス」となり、キリスト教ではなく「皇国の道」が前面に押し出されている。

 それでも礼拝や聖書の講義は続けられるのだが、憲兵や特高は執拗に威嚇した。

 

 …アメリカのスパイ呼ばわりされる女学院への軍などからの圧力は、陰に陽に、ますます強まるばかり。すでに、毎朝のチャペル礼拝や、「ただ一人の天の父なる神」などと歌う讃美歌が、「ただ一人」は天皇しかいないのじゃ、と合唱すること自体、ねらい打ちされるような次第でした。(北畠宏泰編『ひとりひとりの戦争・広島』岩波新書1984)

 

 それでも礼拝は何とか続けることができた。しかしキリスト教精神による教育は望むべくもなかったろう。

 ICANのノーベル平和賞受賞式でスピーチしたサーロー節子さんは1944年に広島女学院高等女学校に入学している。1年生の時から竹槍訓練があり、「日本は現人神(天皇)に統治されており戦争に負けるはずがない」と叩きこまれたという。15年戦争の時代に日本で生まれ育った節子さんは当時そのことに疑問を持つことはなかったが、アメリカ移民だった両親は違ったようだ。ある時、節子さんの父親は英語の本を読んでいた。節子さんが「何を読んでいるの」と聞いたら、「英文法の本だ。そのうち必要になるだろう」と答えたという。しかし、それ以上は何も語らなかった。(サーロー節子『光に向って這っていけ―核なき世界を追い求めて』岩波書店2019)

 木村愛子さんが広島女学院高等女学校に入学したのは1945年。幼いころから体が弱く、国民学校も半年休学したほどだったので、女学校に合格した時両親は大喜びだった。

 

 愛子は愛子で、妻の傍へ日に何度もやってきては、耳の傍へ口をよせて

 「母ちゃん、通ったんよ――」

を繰りかえした。(木村玉ニ『愛子』1960)

 

 女学校に入ってからは学科がおもしろいといって勉強にも身が入ったという。英語も少しは教えてもらえたようだ。しかしそれはわずか4か月のことでしかなかった。愛子さんの作文が残っている。その最後のところ。

 

 …雨の日でも敵機はしつこく来襲する。その度に雨の降る、うるさい中を帰らなくてはならない。

 「ああいやだなあ」

 勉強も出来ないし、何もかもおくれてしまふ。本当に悲しくなる程だ。

 けれど私はいくら敵機が来襲して来ても屈せず負けず、勇しく戦ふ決心を持ってゐる。(『愛子』)

 

 愛子さんは8月6日、建物疎開作業に動員されて爆心地から1kmほど離れた雑魚場町(現 国泰寺町)で被爆し、同月12日に息を引き取った。もっと勉強がしたかったのに、大切なことは何かを知らされないままに死んでいった。