芝間タヅさんは1926年に広島女学校の教師となってしばらくしてからアメリカに留学し、1933年に帰国した。それから再び広島女学院で教えることになったのだが、その間、1931年には関東軍が「満州事変」をおこし、翌1932年には犬養毅首相が海軍青年将校に殺害されるという五・一五事件がおきるなど世の中の雲行きはあやしくなっていた。そしてそれより早く1926年ごろ、広島女学院の教育にも変化が起きていた。
わたしが新任教師になって間もなく、女学院でも、生徒に忠臣蔵を観劇させたり、呉軍港の見学が始まった。生徒を連れて、軍艦に乗せてもらうんです。その筋からのお達しか、女学院が自分の方から時流に沿うようそうしたのかは、当時、ヒラ教員のわたしには分かりません。(北畠宏泰編『ひとりひとりの戦争・広島』岩波新書1984)
ここにも子どもたちの軍艦乗船体験が出てきている。都谷村の小学校が初めて修学旅行を実施し、陸軍、海軍フルコースの中に軍艦乗船があったのが1924年のことだった。子どもたちに軍隊を間近に見せて敬意を持たせる教育は早くから行われていたが、さらに第一次世界大戦後の欧米の自由主義・個人主義、ソ連の共産主義の流入に対する警戒感が強まったためではないかと前にも書いた。
そして同じころ、当時の中学校では軍事教練が始まっている。
県立広島第一中学校(「広島一中」)では1925年5月から現役の将校が学校に配属されて軍事教練が始まった。それまでは2年生が海軍兵学校や呉海軍工廠の見学、3年生が1日だけ野外で模擬戦闘の訓練をしていたのだが、今度は毎週2~3時間の教練があり、4、5年生は翌年から3泊4日の野外演習まで始まったのだ。(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編修委員会『広島一中国泰寺高百年史』1977)
中学校で軍事教練を始めたのは、第一次世界大戦が全国民を戦闘員とする「総力戦」となり、日本もこの「総力戦」に対応しようとしたためとも考えられている。
となると、女学校でも何かしなければいけないということになったのではなかろうか。広島女学校が、広島女学院という附属幼稚園から高等専門学校までそろえる総合学園に発展していくには文部省の認可が必要だった。認可という恩恵があれば、それに統制もくっついてきたと考えて間違いはないと思うのだが。
1932年に広島女学院専門学校が文部省の認可を得て発足した。その学則にはこう書かれていた。
本校ハ基督教主義ニヨリ女子ニ須要ナル高等教育ヲ授ケ淑良ナル婦女ヲ養成スルヲ目的トス
しかしここに更に「教育ニ関スル勅語ノ御趣旨ヲ奉体シ」の一文が挿入されたという。(広島女学院130年史編集委員会編『広島女学院130年史』広島女学院130年史刊行委員会2021)
忠臣蔵の観劇や呉軍港の見学ならまだしも、キリスト教の精神による教育は「教育勅語」に基づく教育とどのように折り合いをつけるつもりだったのだろうか。最初に起きた大問題は1936年の「奉安庫事件」だった。