戦争の足音59 学校と戦争1 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

1934年 精舎善明が都谷村小林尋常小学校卒業

 1941年4月19日未明、陸軍第五師団は中国南部の浙江省で浙東(せっとう)作戦と呼ばれる上陸作戦を開始した。私の伯父にあたる精舎善明は前年9月に士官学校を卒業したばかりの新米の少尉で、浙東作戦では斥候小隊(偵察部隊)の隊長だった。

 19日午前11時半、一発の銃弾が右胸から左背部を貫通し脊髄神経を損傷する。一命はとりとめたがそれから後死ぬまで、胸から下の感覚が戻ることはなかった。負傷した時、精舎善明は20歳。

 善明は5月7日に広島に戻って広島陸軍病院(三滝分院)に入院し、20日に東京の陸軍病院に移送された。しかしこの間、血行障害から両足が壊死(壊疽)したため手術で切断し、1945年3月まで東京の日赤病院で過ごすことになる。

 以前ブログ「病床歌」に書いたが、家の古い机の中から『家集  白菊』と名付けられた伯父の歌日記を見つけた。その冒頭の一文と短歌。

 

 昭和十七年十一月

 負傷以来父再度の上京

 切断により病好転せしより初の対面なり

 良かりしとたゞ笑み給ふちゝのみの父を仰ぎてわが泣きにける

 (「ちちのみ」は父にかかる枕詞)

 

 善明の父、智善は「よかった、よかった」と笑顔をみせた。命が助かっただけでも有難かったというのは父の正直な気持ちだろう。けれど善明は違った。善明の弟の法雄(私の父)に言わせれば、善明は「軍人精神の中に育てあげられた」「軍国主義のコチコチ」だったのだ。

 

 部下らみな名隊長と仰ぎける逝きにしともをわれは羨む(精舎善明)

 

 友は部下から名隊長と慕われ、名誉の戦死を遂げた。自分は何もできない。雀が寄ってくるのさえ自分を馬鹿にしているように感じるのだった。

 

 足なくもい這ひよぢりてひとすぢにわが大君の辺にぞ斃れむ(精舎善明)

 

 這いずり回ってでも天皇のために命を捧げたい。そんな思いに精舎善明は苦しみもがくのだった。

 1945年3月、東京の空襲を逃れて善明は故郷の都谷村(つだにむら 現 広島県山県郡北広島町)に戻る。

 

 傷つきし身も心とも故郷の山に抱かれ今還りきぬ

 

 精舎善明は1921年に生まれ、1934年に尋常小学校を卒業すると、広島市内の浄土真宗系の学校である崇徳中学に進んだ。そして4年生の時に陸軍予科士官学校に合格しているから、小学校、中学の頃に軍人になる夢を描いたのだろう。

 小学校卒業の記念写真が残っている。帽子を目深にかぶり真っ直ぐこちらを見ている表情はもう軍人を志しているようにも見える。

 しかしそれから10年もたたないうちに絶望の縁につき落されるとは誰も想像できなかっただろう。自分の選んだ道だからとあきらめるしかないのか。しかし、もっと別の道を選べたのではと考えてみないと、またこれからも多くの人が身も心も深く傷つけられることになりかねない。善明の背中を押した世の中の風というものがあるように思う。世の中の風は、学校、教育そのものを激しく揺さぶった。