1909年、松田重次郎は大阪で新たに「松田式喞筒合資会社」を立ち上げた。「喞筒」(そくとう)とはポンプのことである。当時の大阪は上水道が敷かれたばかりで、重次郎が作った安価で使い勝手の良いポンプは飛ぶように売れた。
日本で初めて近代的な水道が敷かれたのは横浜で、1887年のこと。幕末から海外との貿易が始まり人口が急増したため水不足が深刻となったためだ。次いで1889年に函館、1891年には長崎で水道が完成した。
長崎も幕末の開港で人口が急造したため飲み水が不足した。さらに1885年には飲み水の汚染でコレラが流行して多くの死者が出たため、居留地の外国人からも水道の設置を強く求められた。
コレラの流行を防ぐためにはコレラ菌に汚染された井戸や川の水を飲まないことが一番だ。そのためには一刻も早く水道を敷かなければならない。呉の場合は海軍が自分たちだけの水道を1890年につくった。広島は陸軍が資金を出して1898年に水道をつくっている。陸軍が「太っ腹」だったのは、広島の宇品港から戦地に送られる兵隊が市内の民家に泊まった(「兵隊宿」)から、陸軍は軍の施設だけでなく市内中心部の一般家庭にも給水する必要があったからだろう。
大阪の水道もコレラ対策から始まった。1877年の西南戦争で勝利した政府軍は長崎から船で神戸、大阪に戻った。そのころ長崎はコレラ流行の真っただ中で、ここで感染した帰還兵が検疫を無視して神戸に上陸したことから京阪神でもコレラが大流行することになったと伝えられる。
コレラはその後何度も流行したが、大阪も井戸水の水質が悪く、川の水を汲むか買って飲むしかなかった。また1890年には大坂で大火があって消火に苦労したため改めて水道の必要性が実感された。
松田重次郎が大阪砲兵工廠に職を得た1894年は水道工事の真っ最中で、重次郎は道の真ん中に埋設されていく鋳鉄製の水道管に興味津々だった。それはまさに最新の機械でしかできないものだった。
その水道管の製造を一手に引き受けたのが大阪砲兵工廠だった。精密さが要求される砲身をつくるのだから水道管は造作もないことと思ったがそうでもなかったらしい。
水道開通の2年前から生産を始めたが、敷設工事に追いつかない。なかでも口径が小さい水道管は寸法のばらつきが出やすく、品質基準をクリアできたのは6割にとどまった。さらに日清戦争の勃発で忙しくなり、最終的に納入できたのは当初予定の半分弱。残りは急きょ、輸入品に切り替えざるを得なくなった。(日本経済新聞「大阪城の石垣貫く水道管は? コレラ鎮めた明治の遺産」2021.5.18)
その後、独自の技術で高品質の鋳造水道管を大量生産することに成功したのが久保田鉄工所、現在のクボタだ。
久保田鉄工所の創業者である大出(後に久保田)権四郎は松田重次郎より5歳上の1870年生まれ。広島県の因島の出身で、沖を通る蒸気船を見て「西洋鍛冶屋になって、あの船を動かす機械をつくろう」と思い立ち、大阪に出て鍛冶屋に奉公するところなど、松田重次郎と似通ったところがある。そして二人とも、モノづくりへの情熱がとにかくすごかった。(ウェブサイト「クボタ バーチャルミュージアム」)