戦争の足音36 移民5 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 太田川流域の砂鉄採取(鉄穴流し)は17世紀前半に禁止となったが、その後も山県郡内での鉄の生産(たたら製鉄)は続き、村の人たちは炭焼きや林業、牛馬や船での運送、船宿など多くの生活の糧を得てきた。中国山地に、いわば「企業城下町」があったのだ。

 しかし近代に入ると様相は一変する。幕末にヨーロッパの製鉄・鋳造技術が日本に伝えられ、佐賀藩が洋式の反射炉で鉄を溶かして大砲の鋳造を始めた。原料の鉄はたたら製鉄によるものだったが、大砲にするには粘り気が足りなかったようで、できた大砲は試射してみると破裂することが多かったようだ。佐賀藩に続いて薩摩藩も大砲の製造に乗り出すが、薩摩藩は最初から洋式の製鉄炉を建造している。近代の製鉄は軍事と最初から強く結びついていたと言える。そしてそれはたたら製鉄を衰退に追いやった。

 広島藩は幕末になって領内のたたら製鉄をすべて藩営とした。砂鉄の運搬などにかかる経費はかさむばかりなのに鉄の値段は下落して隅屋など製鉄業者の経営が行き詰ったのだ。

 藩としては見捨てるわけにはいかなかった。藩内のたたら製鉄には直接従事する者とその家族だけでざっと3万人はいたと見られ、さらに砂鉄の採取、炭焼き、運送などに携わる村人の数はもっと多かっただろう。これらの人たちが一挙に職を失うとなれば藩にとっても大問題だったのだ。

 「廃藩置県」が行われた1871年、新たにできた広島県は大蔵省に対して藩営鉄山を閉鎖しないよう求める上申書を提出した。それには「人民産ヲ失ヒ飢渇ノ難ニカカル」と書かれていた。(島津邦弘『山陽・山陰 鉄学の旅』中国新聞社1994)

 大蔵省は要望を受け入れてたたら製鉄を広島県に引き継がせ、1875年には「官営広島鉄山」となって「飢渇ノ難」はなんとか回避したが、経営はさらなる困難に直面した。ヨーロッパから安価な鉄鋼が大量に輸入されるようになったのだ。

 たたら製鉄の衰退は広島だけではない。島根県でも奥出雲の有力な製鉄業者が1883年に知事に陳情書を送っている。

 

 「外交開ケシヨリ…洋鉄ノ輸入ニ圧セラレ…年々許多ノ損失ヲ取リテ遂ニ資本ノ給スルニ道ナク…休業スルカ又ハ廃業スルノ外手段之無」(『山陽・山陰 鉄学の旅』)

 

 休業するにしても廃業にしても、たたら製鉄で働く人たちが路頭(いや山中か)に迷うことに変わりはない。1885年、「山陰新聞」は「島根県下各郡惨状一班」と題した記事で、「飢餓迫らんとする十中の八、九は鉄山に使役する者たり」と報じた。(『山陽・山陰 鉄学の旅』)

 広島の太田川上流にあった「官営広島鉄山」の作業場は、ヨーロッパの鉄鋼に対抗できずほとんどが第一次世界大戦後までに消滅した。すでに新庄の花屋はどこかへ転居し、加計の隅屋は林業に活路を求めた。多くの人たちは食べていくため家族を養うため山を離れるしかなかった。山県郡から呉の建設現場に一揆と間違うような蓑笠姿で数百人の人たちが向かったのは1887年のことである。