戦争の足音33 移民2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 たとえ「間引き」をしなくても、食べさせられるだけの稼ぎがなければ子どもは育てられず人口は増えないはずだ。

 『日本残酷物語』には明治の中ごろ、愛媛県の山中に仕事に入った山口県の大工から聞いた話がある。山道を泣きながら歩いてくる男の子に出会ったというのだ。訳を聞いてみると、「家が貧しくて、よう養わぬから、おまえはこれから家を出ていけ、渡る世間に鬼はないというから、どこかで養ってもらってくれ」と家を追いだされたという。背中にくくりつけた風呂敷包みには麦の握飯が入っていた。

 そのあたりの貧しい家では、女の子が生まれると赤飯を炊いて祝ったという。年頃になると売れてよい金になるからだとか。一方、家の跡取り以外の男の子は家から追い出されて町や海岸地方へ流浪していくしかなかったのだという(下中邦彦編『日本残酷物語 第4部 保障なき社会』平凡社1960)。それは愛媛県の山中に限った話ではなかっただろう。

 歴史人口学の専門家である速水融さんの『江戸の農民生活史』(NHKブックス1988)には、近世後期日本の国ごとの人口増減を示した地図が掲載されている。人口減少が目立つのはまず東北太平洋岸の地域で、これは天明の飢饉や天保の飢饉など長年続いた冷夏による影響が大きい。全国的にみても人口増加を押しとどめる要因にはまず飢饉があげられるだろう。次に目を引くのは北関東と近畿地方だ。北関東は冷夏の影響とともに1783年の浅間山の大噴火による降灰(土壌の酸性化)がその後の農業生産力の低下に大きく影響したと見られている。

 また北関東や近畿地方は、江戸、大坂という大都市への流入も大きかったと考えられている。都市では独り者が多いため出生率も低い。そして過密で不衛生な環境で伝染病が流行ればひとたまりもなかった。それでも都市は貧しい近郊の村々から次々と人を呼び込んでいく。

 それに対して人口増加が顕著なのは東海、北陸、中国、四国、九州。薩摩、大隅などは薩摩藩が江戸時代に浄土真宗を禁止しているが、ここでも人口はかなり増加している。信仰と人口の増減に関連性が薄い一例だろう。

 江戸時代、17世紀半ばには新田開発による耕地拡大が難しくなるが、農業技術の進歩、さらには商品作物の栽培やさまざまな商業活動によって生産力が向上すると、飢饉などが無い限り、人口も増加するのが当然だと言えるのではなかろうか。

 稼ぐことが出来れば、晴れて独立し所帯を持つことができる。所帯が増えれば子どもも増える。安芸の場合、18世紀前半から19世紀後半までの間に人口は1.8倍になったと見られている(有元正雄他『広島県の百年』山川出版1983)。

 ただし山地の多い安芸国の田畑は狭い。これは新幹線の窓から景色を眺めたら一目瞭然だ。広島県はトンネルまたトンネル。トンネルを出ても他所と違って広々とした田園風景が広がることはない。ということは、安芸には稲作とは別に家族を養える稼ぎがあったということになる。