歩兵第11連隊の記念碑
歩兵第11連隊の記念碑は上八丁堀の堀端にある。そばには「歩兵第十一聯隊」の新しい表札がはめ込まれた表門の門柱も立っているが、記念碑にはめ込まれている「歩兵第十一聯隊兵営配置図」を見る限り、表門はもう少し南の合同庁舎のあたりにあったはずだ。また、広島城天守閣にある博物館(「広島市文化財団広島城」)によると、門柱は当時の写真にみる表門の門柱とは異なるとのこと。(広島市文化財団広島城『しろうや!広島城No.58』2018)
「兵営配置図」からは、第11連隊に11の中隊と2つの機関銃中隊があったことがわかる。旧日本陸軍の歩兵中隊の定員は136人だそうだから、平時の歩兵第11連隊にはざっと1800人の軍人がいたことになる。
明治政府は1873年に徴兵令を公布し、1871年に設置した4つの鎮台に加えて広島と名古屋にも鎮台をおいた。歩兵第11連隊は1875年に編成され、丸亀の第12連隊とともに広島鎮台の基幹部隊となった。鎮台は新政府に不満を持つ士族の反乱を抑えるもので、歩兵第11連隊も1876年におきた萩の乱、そして翌年の西南戦争に出動する。
比治山にある陸軍墓地には西南戦争で戦死した広島鎮台兵の墓が40基あるという。それは広島鎮台兵の戦死者のごく一部でしかなく、他に600人以上が九州各地に埋葬されたが、どこに埋葬されたか大半は所在不明であるようだ(中国新聞社『広島城四百年』第一法規出版1990)。「一将功成りて万骨枯る」は近代においても変わらないどころか、死んでいった兵の数はさらに膨れ上がっていく。
西南戦争が終わって士族の反乱に終止符が打たれると、政府は1888年に鎮台を廃止して師団を創設する。それは海外で戦える軍隊であり、他国を侵略するための軍隊だった。
1894年2月、朝鮮政府の腐敗と日本の経済侵略に苦しむ農民が蜂起すると、朝鮮政府は5月になって清国に軍隊の派遣を要請した。
すると日本は清国に対抗して直ちに朝鮮への出兵を決めた。6月5日、広島市内に号砲が鳴って第五師団の兵士に非常招集がかけられ、9日、第五師団の一部が日本軍の先発隊として宇品港を出た。
朝鮮政府は農民軍と和解し、日清両国軍に撤兵を要請したが、日本軍は7月23日に日本による朝鮮の「内政改革」を要求して朝鮮王宮を占領し、さらに7月25日に清国軍艦へ先制攻撃を仕掛けることによって日清戦争を引き起こした。
日本軍の先頭にたったのが第五師団で、朝鮮国内では清国軍を駆逐して中国の遼東半島にまで進むのだが、遼東半島では清国軍の反撃にあい、さらに大陸の猛烈な寒気に凍傷にかかる者が続出、食糧など物資の補給も滞った。
そんな中で日本軍(第五師団ではないようだが)による民間人の虐殺がおきた(「旅順虐殺事件」)。例によって日本政府は虐殺を否定するが、否定するのなら第三者機関による調査を依頼するかといえば、今も昔も、どこの国も、そんなことはしないのだった。殺された人たちの無念はどうなる。