戦争の足音11 軍都広島1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 斉藤静子さんたち都谷村の小学6年生は1924年3月に一日かけて広島に出て、翌日から二日間広島市と呉市をまわった。驚くのはその見学先だ。それはまさに「軍都広島」だった。

 

 一泊して比治山に登り御弁殿の前で記念写真をとり、みんな疲れた顔をして足を投げ出して写っています。そして、被服廠、糧秣廠を見学し、軍隊の服を縫う所と、牛を殺して肉の缶詰を作る所を見学し、血の流れる牛の肉を見て、もう肉は食べんでよ、と思ったものです。今度は、軍隊十一、七十一聯隊の中を見て、昼食は兵隊さんの食事を戴き、うどん茶碗の様な器に麦ご飯が盛ってあり、大きなタクアンが二切れのせてありました。お菜に肉汁が出ました。余りにも美味そうな臭いについつられて食べてしまいました。ご飯は半分みんな残していました。(斉藤静子「昔の修学旅行」長笹郷土史研究会『ふるさと長笹 第二集』1991)

 

 最初の見学先、正しくは「御便殿」(ごべんでん)。1945年までの半世紀、広島県内に限って9月15日が「大纛(たいとう)進転記念日」に指定されていた。「大纛」とは天皇の陣営という意味。1894年の日清戦争の際、明治天皇が広島城本丸跡の第五師団司令部に大本営をおいた日を記念したのだ。天皇の来広は、天皇が戦争の先頭に立つことで国民や政党に挙国一致の戦争協力を求めるためだったと言われている。

 10月15日には第七回臨時帝国議会が広島で召集され、それに間に合わせるため当時の西練兵場内に仮議事堂が突貫工事で建設された。議会は10月18日に開会したが、それまで政府と激しく対立していた衆議院がこの時は臨時軍事費予算案を全会一致であっさりと可決したため、わずか4日で閉会となった。仮議事堂の役目はこれで終り、11月2日に戦勝祝賀会が開かれた後に取り壊された。今では県庁の東隣、中電基町ビルに説明板があるだけである。

 御便殿は議事堂に付属する天皇の休息所だった。しかし天皇が利用したのは議会開会式と戦勝祝賀会の2回だけで、1895年に広島市に払い下げられた。

 広島市は比治山を公園として整備して御便殿を移築した。1913年発行の『広島案内記』には次のように記されている。

 

 内部の構造は当年の儘(まま)なるも、外廓は宮殿に擬し美観なり、真に広島市の好記念と謂ふべし。(吉田直次郎『広島案内記』友田誠真堂1913 国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 御便殿は新たに造られた宮殿風の建物の中に組み込まれたようだ。建物の前には石灯籠や大きな鳥居も建てられた。当時の絵はがきを見るとそれはまさに天皇の神殿だ。

 広島城本丸跡の大本営跡、日清戦争の際に明治天皇が渡ったという御幸橋、そしてこの御便殿により、広島市民は常に天皇の威光を畏れひれ伏すことが期待されたに違いない。

 しかし原爆は何もかも吹き飛ばした。『広島原爆戦災誌』によると御便殿は爆風で倒壊したものの火災にはならなかった。しかしその後が分からない。御便殿のあった場所は今「壁泉広場」として整備され、当時をしのぶものは石灯籠だけ。御便殿の建材や中に安置されていた御物はどこに行ったのだろうか。当時は誰もそれどころではなかっただろうけれど。