爆心地ヒロシマ87 「爆心地」の境界15 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 アメリカは当初、原爆投下目標地を直径3マイル(約4.8km)以上の市街地とした。それは原爆の爆風がどれだけの損害を与えることができるか検証するためだ。

 当時の広島市はこの条件からすると少々狭かったが、原爆のさく裂による熱線は爆心地から半径3.5km地点まで人体に火傷を負わせ、爆風は半径2km以内にある木造家屋のほとんどを全壊させた。

 そして倒壊した建物などからはすぐに火災が発生し、崩れた建物の下で身動きできない人たちは、そのまま焼かれて誰のものともわからぬ白骨とされてしまった。特に爆心地となった島病院(当時)のある一帯は、そこが爆心地であることが誰の目にも明らかな惨状であったという。

 熱線、爆風。これだけでも原爆はとんでもないものなのだ。

 そして原爆には放射能がある。それはたとえ人が爆発の瞬間を生き延びたとしても、生きている間ずっとその人を痛めつけ、そして死ぬまで恐怖を与え続けた。

 原爆がさく裂する瞬間に放出される初期放射線が爆心地にいた人たちの命をどのように奪ったかは確かめようもない。熱線と爆風で二重三重に殺されたからだ。

 爆心地から離れると放射線量も減少していく。それでも広島の場合、爆心地から半径1km離れたところでも、まともにあびたら致命的だとされる。物理学の法則にのっとって人は死に追いやられた。

 

 人々は五人、八人と時を限ってまるで申し合わせたように同じ時刻に発病し、相前後して死んでいった。そのことは爆心地を中心にした同心円上で等量の放射線をあびた人たちが、丁度、放射線をあびせられてモルモットが医学と原子物理学の教える法則通りに発病し死亡するのと全く同じ経過を示したに過ぎなかった。(肥田舜太郎『広島の消えた日 被爆軍医の証言』日中出版1982)

 

 この「死の同心円」の中心点が近年精密に測定され、そこからの距離で人があびた放射線量がさらに正確に求められるようになった。また、染色体の異常率からも被曝線量を求めることができるようになった。

 爆心地から876m離れた広島一中の木造平屋建ての校舎内で被爆した兒玉光雄さんの場合、爆心地からの距離で推定した放射線量、そして染色体異常率から導き出された放射線量は同じ4.6グレイという数字だった。こうして「死の同心円」はあの日を生きのびた人のその後の人生に暗い影をおとすこととなった。

 放射能の恐ろしさはまだ続く。同心円を描くと今度はそれにあてはまらない人の存在が浮かび上がってきたのだ。それは残留放射能による「看護被爆」や「入市被爆」、そして「黒い雨」など放射性降下物による被害者だ。

 原爆のさく裂から12日後に広島市内に入り被爆者の看護にあたった人たちに急性放射線障害が出て、後年、強い放射線をあびたと推測される多重がんになる人もあった。そして「黒い雨」をあびた人の中にもまた多重がんに苦しむ人が出た。長年被爆者医療につくした鎌田七男さんが言う。

 

 原爆養護ホームの園長を務めていた頃、原爆投下後に黒い雨が降った古田町(現西区)に住んでいた女性と出会った。当時29歳で、家は爆心地から4.1キロ。出産直後で動けず、約2週間は自宅周辺の野菜や水を摂取していた。

 女性は80代で肺や胃、大腸などに相次いでがんを患った。後に肺がんの組織を調べると、ウランが放出源とみられる放射線の痕跡を確認できた。内部被曝の確信を得た。(「中国新聞」2021.1.3)

 

 その時鎌田さんは、近距離被爆者だけが「生涯虐待」ではないことを痛感させられた。