爆心地ヒロシマ77 「爆心地」の境界5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 中国新聞の「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」(2008.1.3)を見ると、被爆当時郵便局にいた職員で自宅にたどり着いたことが分かっているのは志森博登さん一人。瓦礫の下から這い出して川に飛び込み焼死は免れた。しかし、家に帰るとすぐに血を吐き始め9日に亡くなっている。また15歳の廣澤ミキヱさんは相生橋のたもとに倒れていて、通りがかりの人に自分の名前を告げ家族に知らせてほしいと頼んで息絶えた。顔の形もわからないほど焼けただれていたという。そして他のほとんどの人たちは、「遺骨は不明」だ。

 当時中学3年生だった長谷川允さんが父親を捜して郵便局の焼け跡にたどり着いたのは7日早朝だった。

 

 「手足の指が焼け落ちている黒焦げのおびただしい死体に足をすくませながら、午前6時ごろ、まだ火の粉が舞う局舎跡にたどり着きました。父の死を受け止めました」(中国新聞「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」2008.1.3)

 

 柏信隆さんの妻の好さんが隆さんを捜して郵便局の焼け跡にたどり着いたのは8日だった。

 

 「爆心地に入ることができたのは8日でした。局舎跡のがれきの真ん中が沈んでおり、爆風で地下室部分まで押しつぶされていました。これでは、人間はひとたまりもないと思いました」(「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」)

 

 広島郵便局の焼け跡は7日もまだ煙がたちこめ、圧し潰された地下室からはまだ炎が出ていた。そんな中で、遠方から駆け付けた職員や救援の兵隊によって骨が拾われたのだろう。

 姉の美代子さんを探して7日に広島に入った当時中学3年の西原寛司さんの証言がある。

 

 「救援物資を運ぶ海軍工廠の船で7日、広島に入りました。昼すぎに着くと、兵隊が正面玄関跡に集めた白骨が1メートルぐらいの高さになっていました。肉親を捜しに来た人たちは、互いに無言のうちにたたずみ、何とも言えない光景でした」(「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」)

 

 川本ユリノさんは生れたばかりの赤ちゃんを背負って8日に郵便局跡にたどりつくと、そこにいた郵便局の職員が封筒を一つユリノさんに手渡した。

 

 「地下室に大量の、ひと塊になった骨があったそうです。どれがだれの骨か分からず、男性職員から『これでこらえてつかあさい』と渡された封筒には、3センチくらいの骨が3つ入っていました。開けると気が狂いそうになりました」(「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」)

 

 そうした時、最後に見た姿や聞いた声が脳裏によみがえってくるのだろう。愛しい子を奪われた父母の嘆き、かけがえのない兄弟姉妹をなくした家族の悲しみが紙面から伝わってくる。

 

 「母は4年前に95歳で死ぬまで、『行ってきますと手を振って出た姿が目に浮かぶ』と折に触れ、口にしていました」

 「私が最後に見た姉は、6日朝も鏡台の前に立って、おかっぱ頭に白い鉢巻きをきりっと結んで出て行く姿でした」

 「6日朝は、姉に頼まれて髪をくしでといて束ねました。『姉さん、きれいだね』と言うと振り返り、日焼けした顔から白い歯がこぼれました」(「ヒロシマの記録-遺影は語る 広島郵便局」)

 

 原爆がさく裂した瞬間、爆心直下の広島郵便局は想像を絶する衝撃を受け、多くの人は何が起きたのかもわからないまま屋根瓦や床ごと地下室に突き落とされ、そのまま瓦礫の下で焼かれてしまったのではなかろうか。後に残ったのは大量の骨のかたまり。残された人たちの心は、どれほど深くえぐられただろうか。