爆心地の説明版(当時は島病院)
小倉豊文は1946年5月10日にこう書いている。
地上でいうと、大体、広島郵便局の本局とその北隣のあの懇意にしていた清さんの病院、あるいは本局の前の外科の島病院のあたりを、一般に「爆心地」といっているのだ。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)
広島逓信病院の院長蜂谷道彦は被爆した翌日に爆心地は護国神社の近くだと聞いたが、8月下旬には島病院のある細工町あたりだろうと考えるようになり、9月6日には広島郵便局(本局)を爆心地と決めて被爆者の被爆位置と白血球数との関係を調べた。
9月23日は8月6日に亡くなった人の四十九日(満中陰)だ。その日蜂谷道彦は市内を回って原爆で死んだ知人友人を弔った。白島から三篠橋を渡って横川から寺町通りを南下すると、あちらこちらで線香の香りが漂っていた。
相生橋を渡る。爆心地だ。広島郵便局の瓦壊へ到着。全職員玉砕した墓標の前にひざまずき心からなる祈りをささげた。しばらく焼け跡をうろつき懐旧久しきものがあった。郵便局の近くで開業しておられ、たまたま当日不在であった島先生の幸運を祝し、亡くなられた黒川先生、田中先生の不運を思い、日ごろ、私を可愛がっていただいた両先輩の在りし日の面影を偲び思いあまるものがあった。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
広島、長崎に限らず、戦争はあまりにも多くの命を奪っていく。亡くなった人を偲び、その名前を呼び記憶することは残った者のせめてもの務めだ。しかし爆心直下の細工町などは原爆によってまったくの死の街となった。名前さえも残すことができずに死んでしまった人たちが大勢いた。
林重男さんは、助かった島薫院長が病院の焼け跡に立てかけた伝言板を写真に撮っている。伝言板には次のように書かれていた。(林重男『爆心地ヒロシマに入る』岩波ジュニア新書1992)
島病院 入院通院患者 付添看護婦・家人 病院関係者 生死消息をご記入ください
住所 西署(三篠信用組合)内 島薫
島病院では医師や看護婦などの職員、患者やその付添など80人ばかりの人が亡くなったとされる。しかし見つかった遺骨の中で名前が分かったのは一人だけのようだ。院長と一緒に出張して助かった看護婦の入澤(旧姓松田)ツヤ子さんが証言している。
玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、金歯から婦長の宮本さんだと分かりました。ほかの人は皆下敷きになっていたと思います。(「中国新聞」2000.2.21)
島院長は職員や患者の消息をたずね歩き、一生懸命思い出して「島病院戦災者(死亡)名簿」を作成した。それに記された死没者は41人だが、中には、カルテが焼けているので、22号室で胆のう摘出手術をした人とか、中野に住む外傷の人というように名前のわからない人もいる。そしてあとの約40人は何も痕跡を残さないまま消えてしまったのだ。(中国新聞報道センターヒロシマ平和メディアセンター『ヒロシマの空白 被爆75年』中国新聞社2021)