前にも書いているが、広島市近郊の戸坂(へさか)で被爆者の治療に当たった広島第一陸軍病院の軍医肥田舜太郎は後にこう述べている。
人々は五人、八人と時を限ってまるで申し合わせたように同じ時刻に発病し、相前後して死んでいった。そのことは爆心地を中心にした同心円上で等量の放射線をあびた人たちが、丁度、放射線をあびせられてモルモットが医学と原子物理学の教える法則通りに発病し死亡するのと全く同じ経過を示したに過ぎなかった。(肥田舜太郎『広島の消えた日 被爆軍医の証言』日中出版1982)
その放射線とは広島型原爆の場合ウラン235が核分裂して発生した「初期放射線」(中性子線とガンマ線)だ。大まかにいえば、爆心地から500m以内で何ら遮る物がなかった場合100%死亡。1100m離れていれば30日間に50%死亡(半致死量)。爆心から遠ざかるにつれて放射線量は急減し、もう100m離れていれば5%の人が死亡するとされている。(朝永万左男他「核兵器使用の多方面における影響に関する調査研究」外務省2014より)
このような「死の同心円」に早くから気がついた一人が広島逓信病院院長の蜂谷道彦だ。「原爆症」患者の症例を整理する中で、患者が被爆した場所を爆心地からの距離500m未満、500m~1000m、1000m~2000m、2000m以遠というふうに3つの同心円を描いて4つに区分すると、症状との関係が明確に説明できることを発見した。1945年9月7日のことだった。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
ところがこうした基準ができると、今度はそれに当てはまらない患者がいることが見えてきた。
広島のガスを吸うて死んだという人の話をまた聞かされた。原爆を受けなかった者で毎日広島に出入りしていると被爆者と同じような症状で倒れ、祇園町には現にそれで死んだ者があるという薄気味悪い話をきいた。(『ヒロシマ日記』)
被爆者は、半径2kmの円内にある広島市街地の枠の中におさまらなくなっていった。
それは残留放射能の影響だ。原爆の中性子を吸収した物質はすべて放射能を持つ(誘導放射能)。また、広島型原爆には濃縮ウラン(ほとんどがウラン235)が64kg積載され、そのうちの約850~900gのウラン235が核分裂をおこしたと見られている。ウラン235が核分裂してできるセシウム137やストロンチウム90などは核分裂しなかったウラン235などとともに微粒子となって上空に巻き上げられ、やがて地上に降下した(「放射性降下物」「死の灰」)。誘導放射能と、放射性降下物の放射能を合わせて残留放射能というのだ。
誘導放射能は半減期がごく短いものが多く、その放射線量もほとんど人体に害を及ぼすことはないと説明されてきた(最近はそうとは言えないという研究結果についてブログ『ヒロシマは昔話か』14「降りそそいだ放射線9 」に書いている)。
早くから注目されたのは放射性降下物(「死の灰」)だった。広島・長崎では「黒い雨」に含まれて人の身体を蝕み、自然環境を汚染した。
けれど、雨に放射能があるなど最初は誰も知らなかった。放射能と言う言葉さえ知らなかった。世の関心を集めるようになったのはいつからだろうか。やはりビキニ環礁での水爆実験だろうか。そしてもう一つ、井伏鱒二の小説『黒い雨』もきっかけの一つだったに違いない。