爆心地ヒロシマ45 ハーシーの『ヒロシマ』3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

縮景園の川土手

 中村初代さんは幼い子ども3人と一緒に幟町で暮らしていた。夫で仕立て屋の勲さんは1942年に戦死しており、初代さんは形見のミシンを踏んで細々と暮らしをたてた。子どもは10歳の敏男、8歳の八重子、5歳の三重子で、三重子はカトリック教会の幼稚園に通っていた。

 8月6日の朝、初代さんは台所で見たこともないような真白な光に包まれた。初代さんは反射的に子どもたちが寝ている隣の部屋に行こうとしたのだが、一歩足を踏み出したとたんに吹き飛ばされ、つぶれた家の下敷きになってしまった。初代さんの住まいは爆心地から約1.2km。

 それでも初代さんと子どもたちは無傷で這い出ることが出来た。三重子が聞いてくる。「どうしてもう夜になったの? どうしてお家が倒れたの? どうしたの?」と。初代さんは自分でもわからなかったので答えようがなかった。

 幟町教会で被爆したラサール神父が冷静な筆致でその時の様子を記している。不思議な光を見て1秒ぐらい後だったという。

 

  建物全体が、大音響と共に崩壊してゆくようであった。たちまち部屋は真暗になった。光線は音波よりも速く、爆発音の聞える以前に、すでにその効果は届いていたのである。暗闇は決して光線のために眼がくらんだのではなく、周囲に落下してきたものの埃のために、視野が遮られたか、あるいは爆発の煙のためかとも考えられる。窓・ガラス・枠・壁・天井・家具など、それこそ建物の骨格以外のすべてが、衝撃で壊れ、大半が崩壊した。何だか、あらゆるものが起爆力を持ったようであった。(フーゴ・ラサール「私の、見たもの」『広島原爆戦災誌』所収)

 

 そのうちに崩れた家々から火の手が上がり、初代さんと子どもたちは近くの泉邸(縮景園)に逃げた。幟町では前から第一次避難場所として泉邸の川土手が指定されていたのだ。(『広島原爆戦災誌』)

 逃げる途中、あちこちの圧し潰された家の下から「助けてくれ」という悲鳴のような声が聞こえてきたが、強風にあおられ、やがてあたりは一面火の海となっていった。

 クラインゾルゲ神父が泉邸で初代さんを見かけた時、初代さんと子どもたちはひどい吐き気に苦しんでいた。神父の方でも、ラサール神父とシッファー神父が血まみれの重傷だった。日が落ちてから長束の修練院の神父たちが助けに来てくれたが、特に出血のひどいシッファー神父を戸板でつくった担架に乗せ、横たわる重傷者で足の踏み場もない泉邸の中を運ぶのは危険だった。

 そこに救いの神のごとく現れたのが谷本清牧師で、小舟を竹竿で操って安全な場所まで運んでもらうことができた。

 谷本牧師はその日一日、原爆に傷つき焼かれた人たちのすさまじい姿を嫌というほど見た。神父たちを舟で運ぶ途中も川の中州に取り残された人たちを見かけ、後で救助に向かったのだが、その人たちの火傷もまたひどかった。

 

 砂州には二〇人ばかりの男女がいた。谷本氏は岸辺に漕ぎつけて、早く乗れとせきたてたが、誰も動かない。なるほど弱り果てて立つこともできないのだ。谷本氏は舟から降りて、一人の婦人の手をとると、その手の皮が、大きな手袋の型に、ずるりとむけた。(中略)対岸の少し高目の砂州に着いて、ぬるぬるの生身を抱いて舟から出し、潮のこない斜面まで運び上げたが、「これはみんな人間なんだぞ」と、何度も何度も、わざわざ自分にいいきかせなければ、とても我慢ができかねた。(ジョン・ハーシー『ヒロシマ 増補版』2003法政大学出版局)

 

 しかし原爆の威力はこの熱線と爆風だけではなかったことを、当時の世界の人たちはこの時初めて知ることとなる。