爆心地ヒロシマ34 「絶後の記録」20 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 小倉豊文は原爆の後の市内の惨状をつぶさに見て回り、また妻の文代さんが「原爆症」で死んでいく様子も細かに書き留めた。さらには「残留放射能」の恐怖についても触れている。しかし、『絶後の記録』のこれらの記述が検閲で咎められることはなかった。

 小倉豊文に原爆体験記の執筆を求めたのは中央社の社長沢本嘉郎という人だった。

 

 沢本氏は私の原稿をGHQ(連合国軍総司令部)に持参し、その検閲に苦労した由であったが、大した修正も受けずに、一九四八(昭和二十三)年十一月下旬、「絶後の記録」なる書名で出版された(小倉豊文「はしがき」『絶後の記録』中公文庫)

 

 1948年11月といえば大田洋子の『屍の街』も中央公論社から出版されている。大田洋子が避難先で「屍の街」を書きあげたのは1945年11月。原稿は雑誌『中央公論』編集部あてに送られてきたという。しかし編集長は「いまの状勢では『屍の街』の掲載は無理だ」と判断し、しばらく編集部の机の引き出しの中に眠ることとなった。(江刺昭子『草饐(くさずえ)―評伝・大田洋子―』濤書房1972)

 当時『中央公論』は検閲当局であるCCD(民間検閲局あるいは民間検閲支隊)から目をつけられており、出版前にゲラ刷りを検閲に提出(「事前検閲」)して出版許可を求めるのだが、大半の号で何か所も削除を指示され、時には発禁処分もあったという。『中央公論』編集部が「屍の街」を「後世に残すべき作品」と評価しながらも、それだけに検閲は到底パスできないと判断したのも無理はなかった。(堀場清子『原爆 表現と検閲』朝日選書1995)

 そして3年後にようやく出版された際も、「大切だと思う個所がかなり多くの枚数、自発的に削除された」という。

 「自発的」に削られたのは「無欲顔貌」の章だ。書かれているのは被爆当日の市内の悲惨な状況の描写ではなく、主に新聞から拾ってきた放射能とそれの人体への影響についての記述だ。

 

 けれどもかすり傷ほどの軽傷者や、裂傷や火傷もなく、けろりとしていた人が、ぞくぞくと死にはじめたのは、八月二十四日すぎからであった。(中略)そのころ、八月六日の当日、広島にはいなかった人で、あとから死体の取りかたづけなどで勤労作業に出て行った地方の人までが、死ぬと云われた。(大田洋子『屍の街』平和文庫)

 

 そして新聞記事から、「戦災後日にも、まだ相当強力な放射能が潜在している」といった「残留放射能」の存在についても触れている。

 これは占領下の「日本出版法」(プレス・コード)違反だとされる恐れが十分にあった。

 

 第四条 連合国占領軍に就いて破壊的批評や、占領軍に対して不信、又は怨恨を招くやうな記事を掲載してはならない。(「日本出版法」)

 

 1947年10月、中央公論社は「事後検閲」に移った。出版の後でその出版物を検閲に提出するので、事務作業は簡略化されたが、出版社側にとっては喜んでもいられなかった。出版した後で発禁とか没収といった処分を受けたら出版社にとって大きなダメージだ。(『原爆 表現と検閲』)

 堀場清子さんは大田洋子の担当編集者だった長谷川鑛平という人から話を聞いてこう記している。

 

 長谷川氏は事後検閲に移って後も、中央郵便局にあった検閲局に、内閲を受けに行っていたと語られた。“される側”から進んで、“半事前検閲”を継続させていた状況が想像される。(『原爆 表現と検閲』)

 

 「無欲顔貌」章の削除は「自発的」といいながらも、検閲当局と内々に折衝(「内閲」)し、その意向をくんでのものだったのではなかろうか。なぜなら、『絶後の記録』の場合も同じことをしているようなのだ。