爆心地ヒロシマ9 爆心地の発見4 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月6日の朝、広島の空に浮んだ真白な落下傘に見とれていたら閃光が走った。蜂谷道彦が病床で「二つの落下傘へついた爆弾が空中で破裂した」と耳にしたように、爆弾は落下傘についていたと思った人は多かった。

 しかしそれは軍の調査ですぐに間違いだとわかった。爆心地から離れたところで原爆の閃光を感じ巨大で松茸のおばけのような「きのこ雲」を見た小倉豊文などは最初から分かっていたことだった。

 

 たしかに落下傘だ。しかも三つ。松茸のおばけの雲塊の肩を右手に少しはずれた青空に、やや斜めに、くっきり白く三つ並んで、フワリと浮いているじゃないか。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 落下傘は広島市の北に15kmほど離れた亀山村(現 安佐北区亀山)で回収された。落下傘につけられていた容器を恐る恐る分解してみると、それは原爆の風圧と温度を測定して送信する装置だった。

 落ちてきた爆弾は一つ。目撃証言がある。今は平和公園内の本川の川土手に、その時広島二中1年生は東に向かって整列し、みんな上空のB-29を見あげていた。その中のひとり森中武俊君が死ぬ間際に言い残している。

 

 「先頭のB29から、まっ黒なドラムかんのようなものが落ちてすぐに、ほかの飛行機からパラシュートがついたものが、三つ落ちてきた。」(広島テレビ放送『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』ポプラ社1970)

 

 この爆弾の正体は何か。あまりにも強烈な破壊力を目の当たりにして、ある言葉が頭に浮かんだ人も少なくなかったようだ。比治山の山上で小倉豊文も一人の若い陸軍将校から聞いている。あれは「原子爆弾」ではないかと。

 広島に原子爆弾がさく裂した日の前日、宇品にある陸軍船舶練習部では広島文理科大学の理論物理学者三村剛昂(みむら よしたか)教授を招いての研修会があった。三村教授は原爆についての質問にこう答えている。

 

 三村教授は、構造式を黒板に書いて説明し、「東京の仁科博士一派の研究室は、すでに究明されており、偉大な性能のものですが、今次戦争には、到底間に合いません。」と答え、「要するにキャラメル一個大の原子核が爆発すれば、広島市くらいは一度に壊滅するものです。」と説明した。(『広島原爆戦災誌』)

 

 若い陸軍将校は昨日聞いたその話を思い出したのかもしれない。一方、小倉豊文も思い出していた。「マッチ箱一つばかりの分量で、富士山ぐらいは吹きとばす」という爆弾の話を科学雑誌か何かで読んでいたのだ。

 原爆であれば、放射線の痕跡を検出したら証明できるはずだ。それでレントゲン・フィルムを調べたら、確かに感光していた。

 8月10日、広島陸軍兵器支廠で陸軍・海軍合同の研究会がもたれ、広島に投下された爆弾は原子爆弾と断定された。

 しかし、「原子爆弾」という言葉は広島の壊滅ともども国民には秘密にされた。8月12日、中国新聞に次のような記事が載っている。

 

 新爆弾は大体高度500メートルぐらいまでふわふわと落下し突如大音響を伴って爆発する。落下傘を認めてから爆発まで1、2分の余裕がある。恐れず慌てず「1億総洞窟生活」に徹することだ(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター・データベース)