今堀誠二があらためて正田篠枝の『さんげ』に注目した背景として、高橋昭博が感じた様に、ビキニ水爆実験以来全国的に盛り上がった原水爆禁止運動ではあったが、この運動に参加した人でも実はまだ「被爆の実態をそれほど深くは知っていない」ということがあったのではなかろうか。
第一回原水爆禁止世界大会の大会宣言でも次のように述べている。
原水爆被害者の不幸な実相は、広く世界に知られなければなりません。この救済は世界的な救済運動を通じて急がれなければなりません。それが本当の原水爆禁止運動の基礎であります。原水爆が禁止されてこそ真に被爆者を救うことができます。(宇吹暁『ヒロシマ戦後史―被爆体験はどう受けとめられてきたか』岩波書店2014)
「被爆の実相」、つまり原爆に遭うとはどういうことかを、実際に被害に遇った人のところに立って日本全国、そして世界に訴えていくということが原水爆禁止運動の今後の取り組み課題の一つとされたということだろう。実際、日本各地で原爆被害者の会が相次いで結成され、その後の原水禁大会で被爆者は積極的に「被爆の実相」について訴えていった。
その年、中国新聞が正田篠枝と『さんげ』を初めて紹介したのも、この流れの中にあるだろう。記事の中に『さんげ』出版についての正田篠枝の言葉がある。
「この世にこんなことがあってもいいのか。これを世の人に知らせてなぜいけないのか。そのためなら死刑にされてもいいと思いました」(「中国新聞」1955.12.27)
それは誕生したばかりの原水禁運動へのまさに励ましの言葉だ。
その一方、原水禁運動では幅広く国内外の政治問題も討議された。原水爆を禁止するためには当然それが可能となるように世界の政治、社会を変えていかなければならない。目の前には、世界各地の核実験、戦争、非民主的な政治状況があった。
しかしそうした問題に取り組むとなると、しだいに原水禁運動に参加する各団体・組織の政治的な思惑が前面に出てくるようになる。
1959年の第五回原水禁世界大会が広島で開かれることに決定されたのには次のような思いがあった。
私達日本人が原爆でうけた被害の実相をもう一度この目で確かめ、被爆の地をこの足でふみしめうすれかかる当時の記憶を思いおこして、認識を新たにして原水爆禁止の声を大きくしたいから(日本原水協「第五回原水爆禁止世界大会の準備状況」 『ヒロシマ戦後史―被爆体験はどう受けとめられてきたか』所収)
正田篠枝の『さんげ』は、一個人の体験、心情の表現にとどまるのではなく、原爆で引き起こされた様々な問題に目を向け、多くの嘆きの声に耳を傾けることによって、原爆に遭うというところから原爆の全体像に迫ろうとした。そしてこれから戦争、原爆と向き合ってどのように生きていくかの決意を示した。この『さんげ』の持つ価値は、それから何年たとうと色褪せるものではない。だからこそ、今堀誠二は1959年において正田篠枝と『さんげ』を世に知らしめたのだろう。
しかし、「被爆の実相」を伝えるということは難しいことだ。今現在も、これからも、私たちの大きな課題だ。1964年、当時中国新聞の論説委員だった金井利博は、「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか」と提起し、広島・長崎の原爆から20年経とうとするのに、「原水爆は人間的悲惨の極としてはいまだ知られていない」と訴えた。