「さんげ」の最後の二首は、新しい時代を生きようとする正田篠枝の決意表明だ。
人類に 貢献する人を 励まして 布施愛敬せん この残生捧げ
武器持たぬ 我等国民(くにたみ) 大懺悔(ざんげ)の 心を持(じ)して 深信に生きむ
正田篠枝は最初の歌について『耳鳴り』にこう書いている。
いまこの世の誰にも、知られないで、ひそかに生活の苦悩と闘いながら、後の世に生まれくる人のために、一所懸命勉強して、おられる人があります。そうしたお方を、布施愛敬したい、と思うわたしでありました。(正田篠枝『耳鳴り』平凡社1962)
「布施(ふせ)」とは仏の道を求める人を物心両面でお世話すること。古代インド、苦行に疲れ果てた釈尊にスジャータという女性が乳粥を捧げた。これを食べて元気を取り戻した釈尊は菩提樹のもとで瞑想し悟りを開いたと伝えられる。「愛敬(あいぎょう)」は互いに愛しみ敬うこと。
正田篠枝は無名であっても世のため人のために働こうとしている人を大切に思い手助けがしたかったという。それはそれで立派なことなのだが、歌は大きく構えすぎているような気がする。
最初歌を詠んだ時は別のきっかけがあったのではなかろうか。ということで戦後すぐに日本で人類に貢献するような何かニュースがあったか考えてみるのだが思いつかない。だが、「貢献」というと、これがあった。1946年6月26日、帝国議会での日本国憲法案審議における吉田茂首相の答弁。
…我が國に於ては如何なる名義を以てしても交戰權は先づ第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好國の先頭に立つて、世界の平和確立に貢獻する決意を先づ此の憲法に於て表明したいと思ふのであります(国会図書館「帝国議会会議録」)
吉田首相はこの時、憲法第九条によって世界平和に貢献する決意を示した。「さんげ」最後の歌と合わせてみれば、正田篠枝はこの「日本国憲法」の平和主義に大いに賛同して歌を詠んだのではなかろうか。
しかしそれから5年、10年が過ぎてみると、正田篠枝は政府に裏切られた思いがするのだった。
あやまちは繰り返さじと誓いしに再軍備とは不思議なことよ
(正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後―』文化評論出版1966)
やはり、正田篠枝の「布施愛敬」は、その短い半生を通して、日々生活と苦闘しながらも世のために精一杯働こうとする人たちに捧げられた。その人たちと手をとり合い、その人たちに期待した。晩年の童話「ちゃんちゃこばあちゃん」の中で主人公のおばあさんにこう言わせている。
「…ピカドンのおそろしいことを、知らんものや、これからのわかいもんに、話してきかせて、またと、戦争がおこらんように、まきこまれんように、ようかんがえんにゃあ(かんがえるように)、と、いわんならん。ピカドンをつくったり、つかうことのない世の中になるように、やってもらいたいものじゃわい。ひとりひとりが、しっかりしてのう。(中略)ひろしまで、ピカドンにあって生きのこった、わしがいわあで、なろうかい(いわないでいられようか)。ピカで生きのこったもんの、つとめのように思えてきたわい…」(正田篠枝「ちゃんちゃこばあちゃん」『ピカッ子ちゃん』太平出版社1977)
本当のことを伝えていくのも、これまた間違いなく、「布施」である。