救急箱の あり処(ど)求めて 歩まんとすれど おのれの足 立たざりき
奥さん奥さんと 頼り来れる 全身火傷や 肉赤く 柘榴(ざくろ)と裂けし人体
あちこちに 火の手上がると 聞きながら 薬ぬる手は やめず動かす
手当の薬 つきて初めて 気づきたり 肩の傷より 吹き出づる血潮
正田篠枝は後にこう書いている。
事務員は、出勤の途中で、こんな目にあいましたと、ぼろをぶらさげたような、ヤケドで皮膚が、ぶらさがった腕を見せました。救急箱の薬のありったけを、ぬってやるやら、次から次と、大変であります。(正田篠枝『耳鳴り』平凡社1962)
爆心地から2km離れていても、原爆の閃光をまともに浴びればⅢ度の火傷になるとされる。また、2km地点での爆風は秒速53.5mと推定されている。(朝永万左男等「核兵器使用の多方面における影響に関する調査研究」2014)
爆風がガラス戸を突き破って飛びこみ家の中で荒れ狂えば、救急箱が見つかっただけでも良しとしなければならないだろう。そこに従業員が大火傷して駆け込んでくる。
「奥さん奥さん」の悲痛な声から始まって、字あまりだらけの歌だけれど、確かに、「奥さんと頼り来れる」ではなかろう。大変だったのだ。
そして、「肉赤く」が目にとまる。柘榴の実物を手にしたことはないけれど、皮が裂けると赤い果肉が出てくる柘榴を人肉に喩えた仏教説話が日本にあるとのこと。
松重美人さんが撮影した御幸橋の写真に写っている大火傷の人たち。同じような光景を正田篠枝も見たのだ。
御幸橋の写真にセーラー服姿で写っていた河内光子さんが生前、こんな話をされている。父親の膨れて黒ずんだ腕を何気なくつかんだ時のことだ。
ずわーっと剝けたんです。手ですわ。皮がね。見たらべちゃべちゃですわ。ほれで道の端っこへ捨てました。わーっ言うてからね。「持つな」と。「痛い?」言うたら、「聞くな」と怒られました。(NHKスペシャル取材班『原爆死の真実 きのこ雲の下で起きていたこと』岩波書店2017)
河内光子さんの父親の腕の皮は、まるで手袋を脱がせたように、肩から指先まで剥けてしまったという。河内さんが慌てふためくのも無理はない。そして父親にはまだ痛覚があったのだ。閃光火傷(フラッシュ・バーン)による「人間が感じる最大の痛み」という痛みが。
平野町の周辺では午前9時ごろから火の手が上がったという。幸いなことに正田篠枝の家は焼失を免れたが、もしかしたら火に巻かれていたかも知れない。
それでも手当を続けたが、薬が全部なくなって正田篠枝は自分の肩の傷にやっと気がついた。
血まみれの 父がカッター 引きさきて わが肩の血を 止めむと結ぶ
この歌は私家版の『さんげ』にはない。後年、亡き父を偲んで詠んだ歌なのだろう。