中国新聞によると、1945年の7月24日付の広島への米軍攻撃命令書の草案は、「爆弾は地上およそ2000フィート(約600メートル)の高度でレーダー近接信管によって爆発させる」となっていたという。(「中国新聞」2009.3.23)
それが広島に投下された原爆の衝撃波・爆風による殺傷効果を最大限に発揮させる高度だったのだ。これが1メガトンの水爆であれば、庄野直美の計算では、高度3000mとなる。
ところが、『ヒロシマは昔話か』を読んで「へー!」と思ったのが、その高度であれば爆発直後に放射される放射線(「初期放射線」)は地表に到達する前に弱くなってしまうというのだ。ウラン235の燃え残りなどの放射性降下物(「死の灰」)も、広島・長崎の場合よりもより高く巻き上げられ、より広く拡散するだろう(それはそれで大きな問題だが)。
そのため困ったことに発想の転換が行われる。放射能による殺傷効果を最大限にするにはどうしたらよいのかと。その答えが「地表爆発」だ。
核爆発の火球が地面に触れる地表爆発の場合には、地面の土や建築資材などが蒸発するために、放射能を帯びた重い粒子がつくられ、局地的な放射性降下物の量が著しく増大します。地上で爆発したビキニ核実験はこの例で、蒸発したサンゴ礁の白い粉が放射能を帯びて、いわゆる“白い死の灰”となったわけです。(庄野直美『ヒロシマは昔話か』新潮文庫1984)
原爆の火球の温度や大きさは推定するしかないので人によって少しずつ数値が違うが、1979年の『広島・長崎の原爆災害』(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会 岩波書店)では、原爆の炸裂で発生した火球は0.2秒後に表面温度が7700度に達し、その時の火球の半径は200mとしている。
広島の爆心地の惨状は、燃料会館(現レストハウス)地下室にいて助かった野村英三さんの手記で知ることができる。
急いで元安橋のところへ来た。ふと橋の上をみると、中央手前のあたりに、まる裸の男が仰向けに倒れて、両手両足を空に伸ばして震えている。そして左腋下のところに何か円い物が燃えている。(野村英三「爆心に生き残る」『広島原爆戦災誌』)
3000度とも言われる原爆炸裂直後の爆心地であっても、人はまだその形を保っていたのだ。
しかし、もし原爆の火球が地面にまで届くとなれば、広島の爆心地から半径500m圏内など、原爆の超高温と超圧力でまったくの死の世界となり、人は影も形もなくなってしまうだろう(といっても骨のカルシウムは蒸発しないが、火葬でも焼き過ぎたら粉になってしまう)。放射能による殺傷能力などを論じても、それは無意味な話ではなかろうか。
庄野直美が問題にするのは「死の灰」だ。
1メガトンの水爆が横須賀市で地表爆発したとするシミュレーションでは(なぜ横須賀? アメリカ第7艦隊?)、広範囲に「死の灰」が降りそそぎ、その放射線による死亡率50%(実際には助かるのは奇跡)となる長さ130km、幅20kmの長円形の地域は、新宿を超えて栃木県境までかかる(秒速6.7mの風を想定)。さらにその外側の長さ300km、幅40kmの地域でも放射線障害を免れることは難しいという。
1メガトンといった核ミサイルの発射ボタンを押した国の指導者は、人類破滅の原因をつくったと後世厳しく非難されることは間違いなかろう。もしその時、人類が生きのびていたとすればの話だが。