『ヒロシマは昔話か』33 今目の前の危機4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 庄野直美が『ヒロシマは昔話か』を書いたのは1984年。そのころアメリカとソ連の対立により世界では全面核戦争の危機が叫ばれていた。核戦争が起きると膨大な量の煙や塵が地球を覆い、氷河時代よりも寒冷化して人類を滅亡させる可能性があるという「核の冬」に多くの人がおびえたのもこの頃だ。

 私たちの暮らす町の上で今、核ミサイルが爆発したらどうなるか。庄野直美は、そのころ核兵器の代名詞であったICBM(大陸間弾道弾)に搭載されていた1メガトンの水素爆弾でシミュレーションを行った。最新の研究では広島型原爆のエネルギーが16キロトン、長崎型原爆が21キロトンとされているから、1メガトンといえば、広島型の63発分、長崎型の48発分という破壊力になる。

 核ミサイルが空中で爆発した場合、放出されるエネルギーの50%は爆風、35%が熱線、残りが放射線に使われるとされる。庄野直美はまず爆風の威力について、風圧が3.5トン/㎡圏内を「致死領域」とみなした。1メガトンの水爆がその最大限の効果を発揮する上空3000mで爆発したとすると、爆心地から7km圏内が「致死領域」だ。仮に東京の新宿駅上空で爆発すれば、少なくとも品川駅まで逃げていないと死んでしまうのだ。

 徳清広子さんは、袋町の広島富国館という鉄筋コンクリートのビルの4階で被爆した。爆心地からは330mしか離れていない。死亡率98.4%という爆心地からの距離500m圏内で奇跡的に生き残ったひとりだ。

 一瞬の衝撃。気がつくと、あたりは真っ暗闇だった。その中をなんとか下まで降りて外に出た。外も真っ暗だったが、すでに周りの建物から炎が出ていて、地獄のような光景が徳清さんの目に映った。

 

 …燃えてるでしょう周囲がみな、だからその炎でぼんやり物が見えるんです。周りのですね、足や手のもげた人、頭のめげた(つぶれた)人、それから、喉からドブ(内臓)がとび出ている人、それをひこじって歩く人もいたんです。そういうのがねえ、いーっぱい炎の明かりで見えるんです。あれでも人間って生きてゆけるんですかねえ。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』日本放送出版協会1986)

 

 『原爆災害ヒロシマ・ナガサキ』(岩波書店1985)では、爆風は爆心地からの距離300mで毎秒330mと推定している。こんな想像を絶するような風圧なら、建物の中でも外でも、吹き飛ばされ叩きつけられ圧し潰されて死んだ人がほとんどだろう。しかし、それでも即死しなかった人も中にはいたのだ。もし自分がそうだったとしたら、それは、恐怖と絶望以外の何物でもない。

 徳清さんは堅牢な建物の、しかも窓のない廊下にいたので火傷はなく、また、放射線もコンクリートにさえぎられて致死量をわずかに免れたのだろう。その後3か月間はほとんど意識不明で、熱にうなされ、体のあちこちから血がにじみ出たが、なんとか生きのびることができた。

 しかし、窓のない廊下でも、追いかけてきたものがあった。

 

 後日、私たちは彼女の腕のレントゲン写真を見ることができた。そこには、骨にまで達する程に喰い込んだ無数のガラス片がくっきりと見えた。四〇年前の強烈な爆風は、今なお徳清さんの身体の奥深く、その残虐な爪をたてているのである。(『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』)

 

 窓のない場所にいても、ビルの中を荒れ狂った爆風は、無数の小さな鋭いガラス片を徳清さんの身体の奥深くまで突き刺したのだ。今、ガラスだらけの都会の高層ビルの中にいたとして、私たちは想像できるだろうか。その瞬間、私たちはどうなるかと。