ここ10年ばかりは放送部の生徒と一緒に広島市内を歩いていたが、今年は91歳の母親が平和祈念式に参列するので私は車の運転手だ。式の間平和公園の外で待っているのも暑いので、以前から気になっていたハチドリ舎にお邪魔してテレビの実況中継を見て、8時15分に黙とうした。
広島に原爆は「午前8時15分」に落されたとされている。
しかしそれは現在の常識であって、実際に原爆に遭われた人たちはその時、原爆投下時刻どころか一体何が起きたのかさえ全くわからなかったということを、私たちはよくわきまえておかなければならない。
峠三吉はその日の日記に「午前八時過頃」「白光たちこめ」と書き、原民喜は広島の東照宮で野宿した7日に「8月6日8時半頃突如空襲 一瞬ニシテ全市街崩壊」と記した。峠三吉も原民喜も、他のほとんどの人も時計を見る余裕などなかったに違いない。
では「午前8時15分」は誰が確認したのか。それは『広島原爆戦災誌』に記載されている。
役所に近い、千田町の自宅で、出勤しがけに被爆した野田益防衛課長は、八時四十分ごろ市庁舎に着き、防衛課をのぞくと、人影はなかった。少しして、迫田係長や中村正忠市長秘書などが来て、九人の人員になった。野田課長は、壁にかかっていた時計がはずれて、ぶら下がっており、ちょうど八時十五分を示して止まっていたのを見て、炸裂時間を知り、「六日午前八時十五分に炸裂した。」と公に報告した。これが炸裂時間の決定となった。(『広島原爆戦災誌第三巻 広島市役所』)
この広島市役所はすぐに炎に包まれ、掛時計はこの世から消え失せてしまったが、「午前8時15分」は以後、毎年8月6日の黙とうの開始時刻となった。
刻々と迫るあのピカリの一瞬、定刻八時十五分に全市のサイレンが「平和の祈り」を市民に伝えた。それを合図に電車、自動車などの乗物、道行く人々も立ち止まり、オフィスでもペンを置いて、それぞれ静かにあの日の追憶と復興の決意を強固にする一分間の黙とうが捧げられた。…(「中国新聞」1946.8.7 宇吹暁『ヒロシマ戦後史』岩波書店2014より)
もちろん「ピカリの一瞬」だから、「午前8時15分」は原爆が炸裂したその瞬間ということになるが、いつのころかそれは、原爆が投下された時刻と言われるようになった。
1971年に刊行された『広島原爆戦災誌』には、エノラ・ゲイ号の副操縦士の航空日誌から、原爆投下時刻を日本時間の午前8時15分30秒と記している。
ところが1979年出版の『広島・長崎の原爆災害』では、エノラ・ゲイ号は日本時間午前8時15分17秒に原爆を投下し、43秒後に爆発したと詳しく記している。これは1960年に出版された『もはや高地なし―ヒロシマ原爆投下の秘密』の記述に従ったようだ。
しかし『もはや高地なし』の記述を信用するとなると、広島の上空で原爆が炸裂したのは8時16分ちょうどということになってしまう。炸裂時刻を変えるのか変えないのか、当時どれくらいもめたのか分からないのだが、結局広島市は「8時15分」という時刻は変えず、「投下時刻」と呼ぶことにしたということになる。
それだけ「8時15分」が多くの人の心に根付いていたということなのだろう。平和を求め戦争をなくしていく努力は1年365日欠かすことはできないけれど、それでも8月6日午前8時15分、8月9日午前11時2分という大切な1年の節目の日、節目の時刻に、多くの人たちの願いが毎年毎年積み重ねられてきた。その「8時15分」「11時2分」の歴史もまた大切にしていかなければならないのだ。