「原爆医療法」は、「原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し、又は疾病にかかり、現に医療を要する状態にある被爆者に対し、必要な医療の給付を行う」というものだが、実はそれ自体、被爆者の救済には程遠いものだった。
原爆の火傷や放射線の急性障害を乗り越えたNさんだったが、被爆して4年後くらいから激しい疲労とあまりの辛さに七転八倒するような発作に見舞われるようになった。しかし、お金がないので病院に行くのは諦めていた。被爆者に医療面の援助は何もない時代だった。
福島菊次郎さんらの勧めで医者に通い始めたのは1953年。ついた病名は、「全身倦怠、めまい、頭痛、呼吸困難、脳圧昂進、胃腸圧痛」など。しかし開業医にできることは、痛み止めと栄養剤の注射をすることぐらいだった。
ちょうどその年の1月、広島市原爆障害者治療対策協議会(「原対恊」)が発足している。その前年から原田東岷ら広島の外科医が集まって、原爆のケロイドなどで苦しんでいる人たちに無料で治療をしようと取り組んできた。それが広島市医師会と広島市をまきこみ、「原対恊」となったのだ。
「原対恊」が取り組んだのは被爆による病気や外傷に苦しむ「原爆障害者」に対する無料の健康診断と治療だった。費用の算段は後回し。結局NHKの呼びかけで募金が集まり一息ついたのだが、あらためて国による被爆者援護の早急な実現が求められた。
1953年、Nさんは入院することになった。脳圧が異常に高かったのだ。長女が中学校に行かずに幼い子どもたちの面倒を見ながら働いた。そしてNさんが家に戻ったのはそれから3年後のことだった。
生活保護台帳にはこう記載されていたという。
科学的な諸検査と、可能と認められる臨床上のあらゆる方法をもって治療したが、ついに原因が分からず、適切な治療法を発見することができず、脳腫瘍の疑い、血球その他の検査によるも、現代の臨床医学の面では治療不可能との結果退院したものである(福島菊次郎『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』現代人文社2003)
「原爆医療法」ができたのは1957年だが、この法律をもってしても、原因が分からないということは「原子爆弾の傷害作用に起因」とは言えないということであり、「治療不可能」ということは「医療を要する状態」にないという理屈で、「原爆医療法」の「医療給付」は受けられないことになる。要するに「原爆医療法」ができても、Nさんとその子どもたちが行政から見捨てられることに変わりはない。
それでも、1960年、「原爆医療法」が一部改定されたことで原爆病院に入院できることなった。「今度は手術して完全に治してやる」と言われたという。
ところがなんと今度はわずか1カ月で退院させられた。原因が分からず治療の方法も見つからなければ、自己負担のできないNさんを病院に置いておくことはできなかったのだろう。Nさんも子どもたちも、絶望するしかなかった。
しかもNさんの発作はおさまらない。爪先が畳を掻きむしり、発作が頂点に達すると、Nさんは弓のように体を反り返らせ、そのまま悶絶した。
Nさんが亡くなったのは1967年1月。59歳だった。
被爆者を被爆者として援助しようとしない「原爆医療法」。さらに、たとえ入院できても生活の援護がないため今度は家族の生活が成り立たないというのは、Nさん一家だけのことではなかった。
石田明さんがはじめて原爆白内障の認定申請をおこなったのは1971年8月のことだった。