1964年7月、「広島・長崎世界平和巡礼団」が広島に帰ってきた。この「巡礼」に参加した庄野直美は、これからは「人道的立場から平和運動を進めたい」と記者会見で抱負を述べた。(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターデータベース)
それからの庄野直美はまさに八面六臂、よくぞそれだけのエネルギーがあったと感嘆させられるほど、理論物理学者としての研究、反核平和の運動そして平和教育に全力をかたむけた。
1970年には広島での初めての国際会議「ヒロシマ会議」の事務局長を務め、「ヒロシマ平和研究所」の構想をうちだした。1980年にはパリで開かれたユネスコ軍縮教育世界会議に被爆教師の石田明とともに参加し、原爆の悲惨な事実を各国の教科書に載せるよう訴えた。1985年には寄付を募ってヒロシマ・ナガサキ平和基金を設立し、被爆体験の継承や資料収集の支援をしていった。
私が庄野直美という人を知ったのは古いことではなく、2007年に被爆建物の旧日本銀行広島支店について生徒と一緒に取材する中で手にした『ヒロシマ爆心地』という本の中でのことだった。
「ごついですねえー」
窓から半ば身を乗り出すようにして、壁の厚さをしらべていた庄野さんが、感嘆の声をあげた。
「四〇センチ……いやもっと……厚いとこだと七〇センチくらいありますかね……。これだから、あの衝撃波にも耐えられたんでしょうねえ、あの時……。それに、……あれだね、この部屋の窓は小さいんですねえ、六つしかないしねえ……」
今度は、いきなりあとずさり、腕を拡げて窓の大きさを測ろうとする。グレーの髪を柔らかくときつけ、紺のスーツに身を包んだ上品な姿には不似合いな程、エネルギッシュに部屋中を動き回り、その都度、大きな眼が光る。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム他『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』日本放送出版協会1986)
庄野直美の人柄をあらわすエピソードをもう一つ。庄野直美は2012年2月18日にその86年の生涯をおえたが、ジャーナリストの岩垂博は「巨星墜つ」と題した追悼文の中でこう述べている。
陽気で、気さくな、人懐こい人柄だった。ビールが大好き。夏の原水爆禁止世界大会で、その日の行事が済むと、市内のビアホールで、大会参加の活動家と議論を戦わせながらジョッキを傾ける庄野氏の姿がみられた。(岩垂博「巨星墜つ―広島のシンボル・庄野直美氏が死去 原爆被害の実相解明に尽力」ウェブサイト「ちきゅう座」2012.3.14)
その庄野直美の代表作といわれるのが『ヒロシマは昔話か―原水爆の写真と記録』(新潮文庫1984)だ。最近古本屋で偶然見つけ、パラパラッとめくってビックリし、絶版がたったの400円ということで「ありがたや」と頂いて帰った。
この本は、「人間らしい心」を何よりも大切にし、そしてエネルギッシュであることでは誰にも負けなかっただろう庄野直美だからこそ生み出すことのできた本ではなかろうか。
この本の生命は、まだ失われてはいない。