原田東岷はサイゴンに滞在した2週間の間に皮膚移植手術を3回行うとともに孤児院もいくつか見てまわった。悲惨としか言いようのないところがほとんどだった。
たいてい一室または二室に四、五十人の幼児が収容されており、ほとんどが捨て子のようであった。リノタイルの床を這いまわっている裸の子供たちは、まるで尿の海を泳いでいるようなものだった。あらゆる皮膚病が見られ、目や鼻の囲りには、膿の出ている疔をもたない子は稀であった。子らの栄養は極度に悪く、お腹だけが出っ張っていた。(原田東岷『ヒロシマの外科医の回想』未来社1977)
※疔(ちょう)…できもの
そして次の日になればまた爆撃音の向こうで多くの人が殺され、多くの幼い子どもが親を失う。
われわれの考えている数名の戦傷児の日本連れ去りと治療は、日本への警鐘にはなるだろう。だが、ベトナム社会への貢献になり得るだろうか?答えは多分ノーであろう。(『ヒロシマの外科医の回想』)
自分たちに一体何ができるのだろうかと原田東岷はあらためて悩み、やはり無謀だったのかと挫折感にも襲われた。
しかしベトナム行きは決して無駄ではなかった。原田東岷が日本に戻って半年後、20歳のベトナム人女性が原田東岷を頼ってきた。彼女の名前はマイ・フォン・ダオ。
ダオは、1950年、フランスからの独立戦争の最中、フランス軍がダオの暮らす村を空襲し、家族は皆死んでしまった。ダオも顔の左半分の肉が削り取られ、原田東岷が診察した時には、あごの関節が固まって口が開かなくなっていた。食事は、歯を3本抜いて、その隙間から押し込んでいたのだった。
マイ・フォン・ダオが従妹で通訳がわりのマイ・カーンと一緒に広島にやってきたのは中国新聞によると1967年9月27日。原田東岷やバーバラ・レイノルズらが広島駅で出迎えた。「折鶴の会」の子どもたちは数百の折り鶴で作ったレイをダオとカーンの首にかけ、ダオの目から涙がこぼれた。
ダオは6回の手術に耐え、口を大きく開けることができるようになった。入れ歯がつくられ、左半分が削り取られていた唇も形成手術が行われ、左耳の鼓膜が破れていたのも人口鼓膜が張られた。原田東岷はさらにベトナムから5人の戦傷児を受け入れて手術し、自立の援助をした。
ダオは来日して1年半がたったころ洋裁が習いたいと言いだした。すると洋裁学園を経営している原田東岷の知り合いは授業料をただにしてくれ、別の友人はミシンを寄付してくれた。ダオは昼も夜もミシンにかじりついて頑張った。後から日本にやってきたベトナムの戦傷児の看護も通訳も引き受けた。
原田東岷は考えを新たにした。
六人の戦傷児と一人の通訳。たった七人と言う数は、十万の孤児に比べれば取るに足りないであろう。だがその意味は小さくなかったと思う。先ず、広島の人々(実際は全国と言ってもいいのだが)は彼等の国に何が起ったかをより深く識った。何千人という人たちが彼等と話し、手を取り、遊び、学び、そして連帯した。(『ヒロシマの外科医の回想』)
1974年6月26日、マイ・フォン・ダオはベトナムに帰っていった。広島仏教青年会、広島YMCA、「折鶴の会」の子どもたちによる募金でできた孤児院というお土産を持って。