バーバラと共に23 原田東岷2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原田東岷(はらだ とうみん)は1938年に軍医として中国の戦場に送られ、台湾で敗戦の報せを聞いた。後に回顧してこう書いている。

 

 永い召集生活だった。二十七才の元気な見習士官から栄養失調で無一物の元大尉までの七年間毎日山野をかけめぐり、危険から危険をくぐり抜け、幾千の兵隊や八路軍の死をみとりながら自分のいのちをもみつめ続けた。無意味な開戦、幸福追求の無視、かきたてられた復讐心、残虐な公然殺人への共犯。そして最後に虐殺の町に戻ってきた。(原田東岷「あの頃」広島県医師会『原爆日記 第Ⅱ集』1970)

 

 原田東岷が広島市に戻ってきたのは1946年3月15日。その日廃墟の街には雪が舞い、列車の車内には「無い! 広島が無い!」という悲鳴が響いた。

 原田外科病院は広島市の中心部、中島本町にあった。元安川の川べり、燃料会館(現レストハウス)の南隣である。行ってみる気にはなれなかった。実家のある安(やす)村(現 広島市安佐南区)をめざすことにした。

 戦場では赤痢や腸チフスに罹り、台湾では飢えに苦しんで痩せ細った体に、古市橋の駅から自宅までの雪道はひどくこたえたが、家の玄関の戸が開くと、そこには家族全員の無事な顔がそろっていた。

 中国新聞社提供の「平和記念公園(爆心地)街並み復元図」を見ると、原田外科病院は「2月疎開」と記されている。当時、広島県燃料配給統制組合などの国策会社が入っていた燃料会館の周辺は原爆の前に建物疎開で取り壊されており、それで原田病院も疎開ということになったのだろう。そうでなければ市内の医者は「防空従事者」として疎開は許されなかった。

 そのため原爆で広島の医者の多くが死に、医療体制は一瞬にして崩壊した。もし原田東岷が広島市に残っていたら、病院が建物疎開の対象とならなかったら、原田東岷も家族とともに原爆でこの世から消えていただろう。運命というものは分からない。疎開したことで、原田東岷の父親は何百人と言う被爆者を無料で治療して感謝の的となったという。

 広島に帰った翌日から、原田東岷はマラリアを発病してしばらく悪寒と高熱に苦しんだ。その中でこんな事を考えた。

 

 私には自分が生き残ったことが不思議でもあり、一方それが罪悪ででもあるかのような幻覚にも襲われた。

 「もし動けるようになったらこの死滅した町のために、又そこに住もうとする人達のために余生を捧げて見たい」(「あの頃」)

  

 その時原田東岷は34歳になったばかり。病状が落ち着くと爆心地近くに新しい病院をつくることに熱中した。

 多くの人の援けを借りて木造2階建てベッド数20の新しい原田病院が広瀬町に完成したのは1946年10月23日のことだった。