廣島とヒロシマ14  未来のために5 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「廣島」と「ヒロシマ」を見つめた人となると、原民喜をまたまた取り上げないわけにはいかない。

 原民喜は戦争が終ってすぐに「八月六日の生々しい惨劇」を小説「夏の花」に書いた。その中に次の一節がある。

 

 そして、赤むけの膨れ上つた屍体がところどころに配置されてゐた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違ひなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとへば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換へられてゐるのであった。(原民喜「夏の花」)

 

 原爆によって「すべて人間的なものは抹殺」されたと原民喜は言う。

 しかし、原爆に遭うまでにすでに人々は自分の中の人間的なものを奪われていたのではないかと、原民喜は考えなおしたのではなかろうか。

 1949年1月号の『近代文学』に小説「壊滅の序曲」が掲載された。それには1945年3月から原爆に遭う前々日まで原民喜が見聞きした出来事が細かに記されている。

 

 みんなが、みんな、日毎に迫る危機に晒されて、まだまだ変らうとしてゐるし、変つてゆくに違ひない。ぎりぎりのところをみとどけなければならぬ。――これが、その頃の正三に自然に浮んで来るテーマであつた。(原民喜「壊滅の序曲」)

 

 戦時下の、しかも日ごとに追いつめられていく中で、人はどのように変っていったのか。この小説の語り手である正三(原民喜)はいくつもの具体例を指し示す。

 4月になって正三が居候する長兄の店の従業員に召集令状が来た。店に古くから勤めている三津井老人が言った。

 

 「兵隊になられたら、馬鹿になりなさいよ、ものを考へてはいけませんよ」と、息子に云ひきかすやうに云ひだした。(「壊滅の序曲」)

 

 軍隊内の理不尽さに耐えるためもあろうが、まず戦場にあっては、兵士が「ものを考えて」いては平然と人を殺すことはできないからではなかろうか。

 また正三(原民喜)は広島の町の中でも、空襲など恐れるに足らぬと思い込まされ、人にも思い込ませようとする警察官など、多数の「好漢ロボット」がいることに気づくのだった。

 7月、広島市には毎晩のように空襲警報が出た。そのたびに誰もが避難である。原民喜は近くに住む次兄の家族とともに避難したのだろう。「壊滅の序曲」では次兄の名前は清二となっている。

 

 警報が解除になり、清二の家までみんな引返しても、正三はそこの玄関で暫くラジオをきいてゐることがあつた。どうかすると、また逃げださなければならぬので、甥も姪もまだ靴のままでゐる。だが、大人達がラジオに気をとられてゐるうち、さきほどまで声のしてゐた甥が、いつのまにか玄関の石の上に手足を投出し、大鼾で睡つてゐることがあつた。この起伏常なき生活に馴れてしまつたらしい子供は、まるで兵士のやうな鼾をかいてゐる。(「壊滅の序曲」)

 

 「兵士のような鼾」とは、どんないびきなのだろう。むしろ、この小学校1年生の子ども、本名原文彦は、まるで兵士のようにさせられていたと原民喜は言いたかったのではなかろうか。私たちは文彦の死を「夏の花」で知ることができる。原民喜はその死を「壊滅の序曲」の中で、「兵士のような死に方」だったと記している。