ヒロシマの宝もの26~山代巴の人権7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 自立、人とのつながり……。小林みさをさんや寺田愛美さんの話を読みなおしてみて、「声をかけられる」というきっかけが大切だと思った。他人とつながることで小林さんも寺田さんも自分を見つけ、仲間と学び合う中で自分を育てていったのだ。

 山代巴の母イクノさんも「タンポポ」グループの勉強会に入っている。その時イクノさんは78歳。

 

 …母は「お前のように好きなことのためにしか動かなかった者には、わしらのように家の務めか、妻の務めか、母の務めで過ぎてきた者の心の動きは分かりはしない。わしらが勉強せなんだら、平等の世の中など来るものか」と言うのだった。(佐々木暁美『秋の蝶を生きる 山代巴 平和への模索』山代巴研究室2005)

 

 自分は「一銭も持たんのじゃ」という「家の嫁」だったイクノさんは、刑務所に入れられた娘をずっと信じて待ち、百姓仕事をほっぽり出して駆けずり回る娘を励ます中で、しだいに自分も娘の言うことが身にしみて、平等な世になるには自分こそが勉強しなければならないと思ったのだ。

 人と人とがどのようにつながっていくか。ただつながればいいというものではないことは、最近のとんでもない出来事からもよくわかる。

 大事なのは、山代巴が夫の山代吉宗から受け継いだ「人権の折り目をたたむ」ということだろう。何事にも人権の光を当てて考え、取り組むと言ったらいいだろうか。「自由権」も「平等権」も「生存権」も、そして誰もが人として尊重されるということが、人と人とが関わりつながっていく際に抜かしてはならない理念なのだ。

 妊娠初期の胎内で高線量の放射線を浴びたため知能や身体に障害が現われることがある。一般に「原爆小頭症」と呼ばれる。

 1965年6月、6人の「原爆小頭症」の人たちとその親が初めて集いをもち「きのこ会」が誕生した。山代巴や中国放送の記者秋信利彦ら「広島研究の会」のメンバーが一軒一軒訪ねてまわって、この人たちはやっと自分たちが孤絶の存在ではないことを知った。

 「原爆小頭症」の人たちはABCCの研究対象にはされたが、「医療の必要がない」という理由で何の援護も受けることなく放置されてきた。

 「原爆小頭症」の人たちの中でも重症という畠中百合子さんの父親国三(くにぞう)さんがそのころ言っている。

 

 とにかく、よう生きてきたもんですよ。そりゃ、あのとき流産しておってくれればとしょっちゅう思います。ああして、一ん日中ラジオのまえに坐ったきり、なんの楽しみがあるわけでもないんですけえのう(風早晃治〈秋信利彦〉「IN  UTERO」山代巴編『この世界の片隅で』岩波新書)

 

 しかし「きのこ会」の中で語り合い、政府に戦争責任を認めて補償するよう要求していく中で、畠中国三さんはこう話すようになった。

 

 吾々が幸せになるためには、そうしたあらゆる宿命から生じる難を一つ一つ打開し、一歩一歩幸福へ前進していく以外にない。そのためには先ず、自分自身の革命からおこなっていかなければならない。美醜、利害、善悪の判断にも迷うような、たよりになるようで案外たよりにならない人間の心の弱さ、その弱さを革命することによって宿命を打開する力も付いて来るのだ。(山代巴「『きのこ会』にかかわって」『山代巴文庫 原爆に生きて』径書房1991)

 

 畠中さんは何より自分たちの子の「幸福」の実現を考えるようになった。そしてそこから、どの子も幸福になっていくためには今具体的に何をしなければならないかという課題が見えてきた。

 山代巴は2004年11月7日にこの世を去り、畠中国三さんは2008年11月6日になくなられた。課題は次の私たちの世代に投げかけられている。