被爆者が語りだすまで33~空白の10年8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 山代巴は『原爆に生きて』の1953年3月31日付の序文で、「広島平和記念都市建設法」とからめて広島の「立退き問題」についてこう述べている。

 

 この強力な事業法は、焼野ガ原に家を建てて、やっと住んで来た生き残りの人々に、大量の、行くあてもない立のきを要求しています。それにつれて極度に家の少ない広島では、実にたくさんの市民が、行くあてもない立のきの要求に泣いています。(原爆手記編纂委員会『原爆に生きて』三一書房1953)

 

 川手健を事務局長とする原爆被害者の会は、1952年12月の総会で決定した運動方針の中に、住宅問題について当局と交渉することを盛り込んだ。翌年3月には個別の問題については弁護士会の協力を求めることも始めた。立田松枝は後年、山代巴に、川手健について、「あの方は、肉親も及ばないほど親切に世話をして下さった」と語っている。(山代巴「ある母子像」『山代巴文庫 原爆に生きて』径書房1991)

 しかし当の川手健は1953年3月時点の会の現状についてこう述べる。

 

 最初に言った様に会の組織はまだ完全につくり上げられたとはいえない。否、数万の被害者に対して三百名の会員というのでは、組織はまだまだこれからである。財政、資金力も皆無といってよい。(川手健「半年の足跡」原爆手記編纂委員会『原爆に生きて』)

 

 広島の「立退き問題」は、産声を上げたばかりの小さな会には、どれだけ頑張っても手に負えるものではなかった。立田松枝の住まいについても、川手らの努力の甲斐もなく、結局立ち退きさせられてしまった。

 しかも松枝は、隣に住む町内会長で民生委員で、市議会議員にも土地区画整理審議会委員にもなったKという人間を頼ったのだが、何とKは、立田松枝の目が不自由なのをいいことに実印を預かって書類を偽造し、立ち退き料をほとんど自分の懐に入れたのだった。

 「生き馬の目を抜く」という言葉があるが、ずるがしこく素早く他人を出し抜いて大儲けした人間は、戦後の混乱期の広島ではK以外にも数多くいたことだろう。そしてその10倍も100倍もの人たちが、世の中の片隅へ片隅へと追いやられていったのだろう。

 1965年、山代巴は立田松枝と再会する。山代巴が松枝にあらためて手記を書くよう勧めると、松枝はKの悪事も今度は包み隠さず書くという。すっかり大きくなった子どもたちが、そうしたらKが名誉棄損で訴えるかもしれない、暴力を使ってくるかもしれないと心配すると、松枝はこう言った。

 

 「暴力なんか恐れていたら、いつまでたっても戦争の爪は抜けん。戦争の爪はな」と松枝は、五本の指を熊手のようなかっこうにまげ、畳へ爪を突きたててかきよせるように自分の方へ引きながら、「こうやっていつまででも私らを引っぱっているんだ。この爪を引き抜くためになら母ちゃんは何でもする。もうお前らは母ちゃんがいなくなっても、孤児院へ入れられる心配はないんだから」(山代巴「ひとつの母子像」『この世界の片隅で』岩波新書1965)

 

 ここに一人の原爆被害者が声を上げ、その声は『この世界の片隅で』によって多くの人の心に届けられることとなった。川手健らが「原爆被害者の会」を立ち上げてから12年が過ぎ、川手健が自死してから5年になろうとしていた。