被爆者が語りだすまで22~原爆被害者の会11 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 私の手元には1950年に創刊された村の青年団の機関誌がある。当時21歳の私の父が初代編集長だった。13号まで残っている機関誌をめくってみれば、詩、短歌、随筆、短い小説もある。末尾の会計決算によれば、青年団は演芸会、映画会、盆踊りを主催し、料理講習会をやり、農業視察や学習会もしている。戦争中抑えつけられていた若者たちが戦後、新憲法、民主主義の掛け声のもとで一気に羽ばたきを始めたようだ。それはこの村に限ったことではない。

 しかし明治憲法下で強化された戸主の権限を絶対とする「家」、「家」の連合体である「村」の重圧は、民法が改正されても、相変わらず村の女性、特に「若嫁」を抑えつけたままだった。そして「嫁」は声を出せなかった。

 

 泣かずにいられないような悲しいこと、じっとしていられないような腹立たしいことは、口をとざしているのです。(山代巴「歴史を負って現在に向かう」『山代巴文庫 荷車の歌』径書房1990)

 

 なぜなら、どんなに親しい仲間と思っていても、その人間にちょっとでも、たとえば姑の愚痴でもこぼしたら、それはすぐに村の中を駆け巡り、あっという間に姑の耳に入っているのだから。

 山代巴は、こうした村の女性たちの立ち上がりを支えるには、まず巴自身が「人の秘密の守れる懐」となることを目指した。そしてそれを村の女性たちからも認めてもらわねばならない。

 苦心惨憺の日々だったが、巴は刑務所に収監されている間に出会った女性たちから学んだものがある。

 

 人間はどんなに、人権を剥奪(はくだつ)されても人間らしく生きようとし、自分を認めてくれる懐を求めている。(神田三亀男『山代巴と民話を生む女性たち』広島地域文化研究所1997)

 

 押し黙る農村女性の心の奥底にも同じ願いが「埋もれ火」となっていると巴は信じた。では、村の女性たちが自分から殻をやぶって出て来るようにするにはどうしたらいいか。

 巴はこうした女性たちから聞いた話、聞えてきた話をもとに物語をつくっていった。その物語は本当の話だけれど、絶対にどこの誰から聞いたか感づかれてはならなかった。その物語は本当の話だから、主人公は決して理想的な人物ではない、むしろ、どうしようもないところの多々ある人間だ。その物語をひとり本で読めば、文句も言わずにひたすら頑張って耐え抜いた話としか読めないだろう。

 しかし物語はまず女性たちの集まりの中で語られたのだ。山代巴は言う。

 

 人は誰でも鏡を見て、自分の顔に墨がついているのを知ると、墨を拭きます。(山代巴「歴史を負って現在に向かう」)

 

 山代巴の語る物語は同じように抑えつけられている女性たちの「鏡」だったというのだ。

 集いの中で物語を聞いて、ああこれは自分のことだと気づく。自分がどんな姿をしているか客観的に見ることが出来ていく。集いの輪の中で少しずつ本音を語り出す。

 しばらくすると仲間内で批判することも出て来るが、それも「自分の顔の墨を自分で落とさせる」ような批判になるよう心がける。それを支える取り組みに山代巴は半生を捧げた。

 

 学問もなく、暇もない。その上家族や、近所の拘束の多い農村の女が、そういう批判を表現できるようになるには、大勢が力をあわせるよりほかに道はない。百人千人が、力をあわせてやっと一人前の表現しか出来なくてもよい。まずそこからはじめなくては、自分らの上にかぶさっている圧迫はのぞけない(山代巴「歴史を負って現在に向かう」)

 

 そしてそれは山代巴にとって平和運動そのものでもあった。