2020年8月6日 原爆供養塔5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

原爆供養塔地下納骨堂の扉

 「遺書」以降の佐伯敏子さんの足どりは、堀川惠子さんの『原爆供養塔』(文藝春秋2015)に詳しい。敏子さんは夫の仕事で広島県の大竹市に引っ越し、転勤で再び広島市に戻ったのは1958年春のことだった。広島の街はすっかり新しくなり、平和公園や広島城跡は「広島復興大博覧会」でにぎわっていたが、そこに敏子さんの知った人は誰もいなかった。

 

 帰る先も、訪ねる先も失った敏子は、ある日、平和記念公園に立ち寄った。公園の片隅に、土饅頭と呼ばれる塚があった。その地下には、原爆で亡くなった何十万もの人たちが遺骨になって安置されていると聞いた。(堀川惠子『原爆供養塔』文藝春秋2015)

 

 もしかしたら行方不明のままの夫の両親の遺骨もこの下に納められているかもしれない。頭だけ戻ってきた母親の残りの遺骨もあるかもしれない。雑草が茂り放題の土饅頭(原爆供養塔)を見て、敏子さんは何かしないではいられなくなった。草を抜き、落ち葉を拾い集めながら、敏子さんはここで自分に後わずか残された時間を過ごそうと思った。

 RCC中国放送のアナウンサー世良洋子さんといえば、藤尾めぐみさん、山原玲子さんとともに、ラジオといえばRCCの私にとっては忘れられない名前だ。1969年の夏、世良さんは毎日ラジオで原爆の死者の名前を読み続けていた。それは新たに発見された警察の検視調書に記された名前で、その名前を読み上げて遺骨のあることを遺族に報せようとしたのだ。

 佐伯敏子さんは原爆供養塔からの帰り道、肉屋の店先でラジオから流れる声を聞いた。「佐伯さわの」と聞こえた。それは敏子さんの夫の母親の名前だ。いくら探してもどうしても見つからなかったのが、原爆供養塔の地下に遺骨があるという。10年もの間ずっと供養塔の掃除を続けてきたのに、知らなかった。

 そして翌年、敏子さんは義父の遺骨も供養塔にあることを探し当てた。夫の両親に対してずっと申しわけない思いを抱えてきた敏子さんだったが、ようやく肩の荷が下りたことだろう。でも、これで平和公園とさよならという気持ちにはなれなかった。

 

 まだまだ遺骨がわからん人達が嘆き悲しんでおられる。何とかしなきゃ。そう思って二、三年過ぎたのよ。そしたら、私に、ここのカギを預けてくれた人がいたの。そして中で、あの死者たちの名前をずっと確認して、この番号がここだから、この隣に姑さんが置かれていたんだと、初めて知ることが出来ました。だから、今度は、母さんの隣におられた人を探してあげなきゃ。そんな思い。事実を知ったら、遺族を探すしかない。(ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 中川幹朗編『証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』2004)

 

 敏子さんは原爆供養塔の地下室で名前のわかる遺骨を一つ一つ確かめていった。遺骨の帰る先を探す仕事が始まった。