2020年8月6日 レストハウス4 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆の後、燃料会館ではすぐに遺体や遺骨の収容が行われたようだ。燃料会館に勤めていた人の遺族の一人は8日頃、「職員と思われる男性から、幾つかに分けてあった遺骨の一つを受け取りました」と証言されている。(「中国新聞 ヒロシマの記録―遺影は語る 中島本町Ⅱ」1999.8.3)

 建物は翌年の早いうちから修繕が始まり、しばらくは燃料会館として使われたらしい。

 広島平和記念資料館のウェブサイトで「展示 催し物」から入って「企画展」の中の「佐々木雄一郎写真展」を開いてほしい。「焼け跡に生きる」と題して1945年秋ごろかと思われる燃料会館が写真に撮られている。建物そのものは残っているものの、窓ガラスはすべて吹っ飛び、一階部分だけは板が立てかけられて雨風をしのいでいる。こんなところから、ヒロシマは立ち上がっていったのだ。

 1957年、建物は元燃料会館から広島市の東部復興事務所となり、広島の復興に向けて区画整理事業の拠点となった。そのことはブログ「街の記憶~4つの名前を持つ建物」に書いたが、今のきれいな街並みができる裏では、置き去りにされた多くの人が苦しみ怒った。その「広島の復興の光と影」は、まだまだ掘り起こせるものがあるのではなかろうか。

 

 〈広島平和都市建設法〉によって、公園ができ、広い道路がつき、ビルは建った。これが復興だった。人間は置き去りにされていた。病苦と貧困に追いうちをかけるように、住む家はボロボロのままに放置されていた。(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981)

 

 しかし、改修されたレストハウスのパネル展示はあっさりしたものだ。「市の東部地域の復興の拠点となりました」というだけである。

 もちろん、このそれほど大きくもない建物にあれもこれもと情報を詰めこんでも、建物の印象はかえって散漫になるだけだろう。むずかしいものだ。

 新装オープンとなったレストハウス2階の休憩・喫茶ホール。私の妹が見てきて雰囲気がいい、窓から見える景色がいいという。「何言ってんだ」とは言ったものの、思い直した。

 考えてみると、レストハウスの中で2階のこのスペースこそ、今一番大事なのではないかと。

 それは、この場所が「語り合える」場所であってほしいということだ。映画を見たあとレストランや喫茶店で語り合うように、さっきまで市内で、公園や資料館の中で見てきたこと聞いたことを語り合う、今やこれからの日本と世界のことについて語り合う、そんな場であってほしいということだ。語り合うことで、人と人とが繋がっていく場所の一つになってほしいということだ。

 そのためには、やはり「しかけ」がいる。休憩・喫茶ホールには河本明子さんの被爆ピアノが展示されるそうだが、もう一つ、13人の家族・親族を原爆に奪われた佐々木雄一郎さんが30年以上、10万枚以上も撮ったヒロシマの写真を、平和公園だけ数枚でもいいから、パネルにして展示してもらえないだろうか。窓から見える今の平和公園の景色とのコントラストは、きっと見る人に「広島の復興の光と影」を感じさせてくれるはずだ。

河本明子さんの被爆ピアノ