原爆と念仏55~懺悔と誓い4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 アジア・太平洋戦争が終わったのは正式には1945年9月2日。東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号艦上で日本政府が降伏文書に署名した日だ。それからの日本はしばらく「民主主義」一色となっていく。

 本願寺教団も世の流れに従順だった。浄土真宗本願寺派の大谷光照前々門主が回顧されるところでは、前々門主(当時は法主)は1942年11月、靖国神社に正式参拝している。それは明治維新以来国家神道に従属してきた教団の行きつくところまで行った姿だった。

 しかし教団の態度は戦後一変する。宗門の最高法規である「宗制」は1946年に改正されるが、そこでは近代の真宗の門徒に徹底された「王法ヲ遵守」、つまり天皇の命令には絶対に従うという教えがあっさりと削除されたのだ。しかし、そこに心の底からの反省があってのことだったかは疑わしいようだ。大谷光照前々門主自ら述懐されている。教団は「天皇制絶対主義から、戦後の民主主義に乗りかえたにすぎない」と。

 そんな中、時流に乗れない人たちがいた。

 私の祖母精舎ヨシノは戦争中寺を守るとともに地域の婦人会長としても奮闘していたらしい。寺には1943年5月に門徒から寄付を募り献納したという「本派本願寺安芸号」と名付けられた戦闘機の写真が残っている。戦闘機は当時もかなりの値段がしただろうが、祖母は寄付のお願いにがんばって家々をまわったに違いない。

 そして長男を戦場に送った。

 祖母は80歳を過ぎてから、それまでつくりためた短歌を一冊のノートにまとめている。その中に長男善明をうたった歌がある。伯父がなついていた親戚の女性の三十三回忌にあたり昔を思い出した歌だ。

 

 幸薄き我子の負傷を語り合ひ共に号泣すあの日あの時

 

 1971年、祖母は誘われて靖国神社に参拝する。後年、歌にした。

 

 靖国の桜は咲きにしや散りにし人をしばし偲びて

 

 毎朝毎夕「南無阿弥陀仏」を唱えた祖母は、それでも靖国を離れることはできなかった。

 浄土真宗本願寺派が宗門として初めて戦争を反省し平和を誓ったのは1995年になってのことだった。

 

 省みますと、私たちの教団は、仏法の名において戦争を肯定し、あるいは賛美した歴史をもっております。たとえ、それが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。人類の罪業ともいうべき戦争は、人間の根源的な欲望である煩悩にもとづいて、集団によって起こされる暴力的衝突であります。(中略)それへの参加を念仏者の本分であると説き、門信徒を指導した過(あやま)ちを厳しく見据えたいと思います。宗祖の教えに背(そむ)き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前(おんまえ)に慚愧(ざんき)せずにはおれません。(大谷光真門主「終戦五十周年全戦没者総追悼法要ご親教」1995)

 

 そして当時の大谷光真門主は宗門を代表して次のように誓われた。

 

 過去の事実を確かめ、省み、戦争を繰り返さないよう、すべての人々に平和が実現するようにつとめなければなりません。それが、死をむだにしないということであります。(大谷光真門主「終戦五十周年全戦没者総追悼法要ご親教」)

 

 ここまで長い時間が過ぎた。けれど、ここからはじめていくしかない。