疎開先での日課は学校によって違ったようだが、仙徳寺の場合次のようなものだった。
起床は朝七時。当番制で数人が桶をかつぎ、寺の下の水汲み場まで降りて、全員の洗面用の水を運び込む作業はきつかった。乏しい割当ての水で歯を磨き、完全に顔を洗いきるテクニックはもう思い出せない。(福間喬介「五十キロ、深夜の夜逃げ」広島光道学校同窓会『広島光道学校の想い出』)
起床が午前7時というのはゆっくりな気がする。学校も2kmの山道を行かなくてはいけないし。けれど光道国民学校の子どもたちは都谷村の国民学校に通うといっても別の建物で授業を受けたようだから、融通が利いたのかもしれない。
仙徳寺は山の中腹にあり、当時飲食に使う水は横穴から流れ出てくる水を使った。水は溜めておけばよいのだから、疎開児童が来て水が全く足りなくなったわけではなく、水汲みが子どもたちの奉仕作業だったのではなかろうか。以前仙徳寺での同窓会の時、何人かの人が水を汲んだ場所を見に行かれたから、よほど骨身にこたえたのだろう。
ラジオ体操と庭の掃除を終え、朝食の前には本堂に全員が正座、南無阿弥陀仏を唱えてから膳につく。(福間喬介 同上)
光道学校は浄土真宗の熱心な門徒の方々が設立した学校なので、各家庭でも仏壇の前に正座してのお経は当たり前だったのではなかろうか。寺でも念仏を唱えておしまいではなくて、「十二礼(じゅうにらい)」という短いお経を唱えたと聞いた。
それからやっと朝ご飯になる。学童集団疎開では、食べ物が足りないのが子どもたちにとって一番の問題だった。食糧事情はどの地域も学校も全く一緒というわけではなかったろうが、竹屋国民学校の加計町での食事は次のようなものだった。
…朝食はジャガイモの浮いたおカユを、おわんに二杯だけである。昼食は白米であったが、鞄の中で横になると、弁当箱の一方に片寄って隙間ができるというほどの少量であった。これも寮によっては、飯の中にワラビやゼンマイをはじめ、乾したヨモギがまじっているのもあった。ヨモギまじりの飯は、喉につかえ食べにくかった。(「集団疎開児童の記―竹屋国民学校の場合」『広島原爆戦災誌』)
子どもたちはお腹をすかせた。山県郡吉坂村(現 北広島町)の安養寺に集団疎開していた神崎国民学校5年生の米澤鐡志さんは吉坂国民学校に行く途中、ため池で養殖している鯉の餌に目をつけた。餌は蚕のサナギを干したものだった。
「あれ、魚が食えるんやから、人間も食えるんちゃうか」
ぼくが言うと、
「ほいじゃ、食べてみよう」
いっしょにいた三、四人の友だちものってきた。
おっかなびっくり口に入れてみた。ほろにがいけど、食べれんことはない。
「うん、食える」
ぼくらは、あっというまにあるだけのサナギを食べてしまった。ほんのちょっとだけど、空腹がしのげた。(米澤鐡志『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』小学館2013)
次の日から、サナギはどこかに隠されてしまった。