可部交番(可部警察署跡)
可部の町で、まさに不眠不休で治療に当たった医者の一人戸田幸一さんが書いている。
婦人会の心から、せめてもの恵みのアイスキャンデーを手に、口にしたまゝで、坐ったまゝで死ぬ子、今手当をして後を見れば、既に死んでゐる老人、本堂の廊下で、弓が張った様になったまゝの破傷風患者、ガス壊疽で、翌日死んだ青年、人間生きるは難しいが、死ぬるのは簡単である。(戸田幸一「平和を念じて」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
吉川清・生美夫妻は9月に入っても持ちこたえていた。清さんは熱が少し下がり、食欲もぼつぼつ出だした。しかし火傷は一向に良くならず、膿も下痢も止まらない。被爆直後は足の踏み場もなかった本堂の中は隙間が目立ってきたが、その中を婦人会の人たちは一日中便器を手に歩きまわっていた。
そのころは患部に塗る食用油さえ底をついた。
婦人会の人たちは、火傷や化膿どめにはつわぶきの葉がよく効くといって、患部にはってくれた。また、キュウリの汁がよいといっては、おろし金ですって傷口にぬってくれた。こうした民間療法のおかげで、私たちの体は、青いつわぶきの葉とキュウリの汁、血と膿のまざった色などで、なんともいいようのない異様なものになってしまった。(吉川清『「原爆一号」といわれて』ちくまぶっくす1981)
そのお蔭かどうか、涼しくなるとともに吉川さんの熱は引き、膿も少なくなった。食欲が出てくる。すると今度は空腹が吉川さんたちを苦しめた。一日に配られるのは小さなおムスビ3個だけ。
可部町の医師笹木武雄さんが書いている。
炊き出しは五丁目の明神社境内で行った。握り飯にたくあんであるが喜ばれた。もちろん重傷の人には、重湯やお粥を用意した。(可部町被爆体験継承編集委員会他「昭和59年度可部町被爆体験記録集 川のほとりで」広島市教育委員会『あのとき閃光を見た 広島の空に』)
いくら農村地帯にある町とは言え、戦時中、米などは強制的に供出である。そこに何千人も避難してきたら、十分な量の食べ物を提供したくても、それは無理な相談と言えるだろう。
吉川さん夫妻はまだフラフラの身体だったが、自分たちで何とかしなくてはいけないと歯をくいしばって動きはじめた。
二カ月以上もの長い間、日夜をわかたず親身の看護をしてくださった婦人会の人たちの御厚意は、終生忘れることはできない。
一〇月一六日、医師や婦人会の人たちの見送りをうけて、生涯忘れることのできない勝円寺をあとにしたのだった。(吉川清 同上)
可部で原爆の体験記録集「川のほとりで」が編纂されたのは1984年。可部町の婦人会長として被爆者救護に奮闘された友広ゆきみさんが体験記の最後にこう書いておられる。
今でも、死の寸前の、あの「水をくれ、水をくれ」と叫ぶ声に夜も眠れないことがある。
「二度とこのような悲惨な戦争、核兵器を使用しない世界を」と叫びたい心情である。思い出すと恐ろしいので、余り語りたくない。(「川のほとりで」)
もう17年も前になるが、可部で臨時救護所となった寺の一つ品窮寺(ほんぐうじ)でお話を伺ったことがある。親切にお話していただいた方も、そのころもうかなりのご高齢だった。可部の町で「水をくれ、水をくれ」という声を憶えているという人は今おられるかどうか。
本堂の中も境内も、遺体を焼いた近くの河原も、当時の痕跡を知ることはできなかった。
昨年、そういえばと思って可部の交番に行ってみた。そこは戦時中可部警察署で、次から次へと送られてくる被爆者の応急手当をした場所だ。今見る建物は戦後のものだが、敷石だけは、当時のものではないかと思ったのだ。