寺の話から少しそれるが、町内会長が遺骨を火葬場から寺まで一人で運んだというのが引っ掛かった。己斐国民学校や善法寺では、地域の人がどれくらいお手伝いできたのだろうか。己斐国民学校ではこんな証言もある。
小学校の教室で休んでいる人は、どの人もどの人も怪我人で、姉が一人怪我をしていないぐらいでした。
夜中に「水をくれ」「お父さん」「お母さん」とそれぞれに呼んでいます。姉は「水を……」と言われれば、杓で一人一人に飲ませて歩いていました。その水が血もぐれの水じゃそうです。(安芸教区広陵東組・広陵東組仏教婦人会連盟『炎の記憶―安芸門徒の原爆体験―』1963)
お世話する人がまったく足りなかったのは間違いないだろう。
小倉豊文さんは被爆直後の己斐の様子をこう書いている。
焼けなかったとはいえ、己斐あたりの家屋の被害も随分ひどかった。愛子の家あたりよりもはるかにはげしい。ことにあの己斐町一帯特有の花卉農園の温室のそれは目もあてられない。ガラスの飛散はもちろんのこと、骨組までがめちゃめちゃに破壊され、ガラスの破片は周囲の農園の大地に時ならぬ氷の華を散らしていた。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)
己斐の町は爆心地から西に2.5km~3kmほど離れたところにあり、特に戦前は花の栽培や盆栽、造園業で知られたところだった。
己斐からは町内会の準備の遅れから建物疎開作業にまだ出ていなかったのは不幸中の幸いだが、町内でも閃光で火傷した人爆風でけがをした人は多かった。また職場や学校から建物疎開に出て亡くなったり、行方不明のままの人も、他の町同様に多かったのだ。安部アヤ子さんは己斐で隣組の班長をしていた。
隣組一四世帯でしたが、どの世帯にも行方不明、亡くなった人、けがをしている人が二人や三人はおりました。
私の家では、動けるのは、英子さんと私と11歳の長男だけなのでした。
近所の越智医院長が駆けつけてくださったのが夕方でした。
「けが人が多くて廻り切れません。」
と疲れきった先生の様子でした。(安部アヤ子「軍人谷にて」『広島原爆戦災誌』)
そんな己斐の町に市内中心部から逃げてきた人たちが殺到した。名柄敏子さんによると、己斐国民学校の救護所を目指して谷を上って来る人たちの無残な姿はとても正視できるものではなかったという。
人、人、人、それらは皆んな二目と見られぬ程むごたらしい形相で上って来るが力尽きて通り筋の家々に皆は入り込んで所きらわず焼けたゞれた体で倒れ押し入れの中からお客布団と云わず毛布と言わずみんな勝手に引きづり出して纏ひ見る間にどの家も一っぱいになってしまった。そうして呻き声叫び声母を呼ぶ声は道行く人々の臓腑をえぐらずにはゐられなかった。(名柄敏子「原爆体験記録」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
名柄さんは己斐国民学校でB29を見ていたら閃光で火傷したという自分の子どもの世話をし、集まった義兄義弟の合わせて三世帯15、6人の食事の世話をし、さらに己斐国民学校にも出かけて死を待つばかりの人たちのお世話をした。
私は隣組から割当てられたその人達の奉仕班にも働いた。鼻もちぎれんばかりのあの死臭漂ふ中をお粥お結びお茶を券と交換に配って歩いたがそれを嬉こんで食べる人は少なかった。(名柄敏子 同上)
お世話をしようにも、どうにもならない現実がそこにはあった。