矢口さん一家は8月9日、江田島にある知り合いの病院に運ばれた。熱に浮かされ意識が途切れ途切れの久代さんは、翌10日に兄が死んだことは知らなかった。
そのころから、市内中心部で被爆しながらも助かったのに、急に苦しみだして死んでいく人が出だした。大量の放射線を浴びたことによる「原爆症」だ。
21日には貞子姉さん(いとこと思われる)が亡くなり、そして27日には久代さんの母親が息を引きとった。久代さんはもうろうとした意識ながら、お母さんに、「死んじゃ駄目」と叫んだ。
私が起きられるなら、母にすがりついて泣いたでしょう。そして、お母さんの最後の姿を見守ることもできたでしょう。でも、今は互に火傷をした病人で、指一本動かすこともできない有様なのです。(中略)私は母と一つの病室に枕を並べていながらも、母の姿を一目も見ないで、何一つ子として親の介抱もできずに、正気を失ったまま、大切な大切な、世界にたった一人の私の母を亡くしたのです。(矢口久代 長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえー』岩波文庫)
久代さんは最愛の母にお別れの言葉をかけることもできなかった。
久代さんの寝たきりの生活が終わったのは11月になってからだった。久代さんは命だけは何とか助かったのだ。横川の焼け跡に家を再建して翌年の2月に移ることもできた。しかしその間にも、一生懸命久代さんたちの世話をしてくれた、いとこの賢ちゃんのお父さんも死んでしまった。
床の間に並んだ七つの遺骨。おばあさん、お母さん、姉さん、兄さん、弟、叔父さん、貞子姉さん……。
生き残った父と二人だけで仏前に坐る時、私はただおどろきのあまり唖然としてしまうのです。そして生きて行く事の苦しさ、宿命に泣かされました。私は自分という存在がたまらなくいやになりました。(矢口久代 同上)
久代さんは思う。生きるということは苦しむことなのか、今の自分からは何一つ楽しさが湧いてこない。このまま自分は、ひねくれた人間になってしまうのか。久代さんは、子どもながら、自分が恐ろしくなった。
それから5年。『原爆の子』に体験記を書くころには久代さんの気持ちもようやく落ち着いてきた。何が彼女を励ましたのかはわからないけれど、「ころんでは立ちあがり、またころんでは立ちあがる」のだと、高校2年生になった久代さんは思うのだった。