小倉豊文さんが戦後、知り合いの元第二総軍参謀から聞いた話によると、第二総軍司令部の本庁舎だけは倒壊を免れ、火が出たのも午前10時ごろだった。建物が火に包まれるまでの間、重要書類の持ち出しが懸命に続けられ、二葉山の洞窟に運び込まれたという(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫)。動ける将校や兵隊も一緒に二葉山に移っただろう。
当時同盟通信社広島支社編集部長だった中村敏さんは、6日正午ごろに広島市郊外にあった原放送所から広島全滅の第一報を東京本社に送り、大本営にまで伝えられたことで知られる。中村さんはその後死体が散乱し重傷者が逃げまどう広島市内に突入した。二葉山の司令部にも立ち寄ったようだ。中国新聞の大佐古一郎さんが話を聞いている。
その日の午後二葉山の第二総軍横穴陣地に行くと、井本参謀が
「くやしいよ。畑元帥は無事だったが、肩に裂傷を受けられた。宮様参謀は戦死、各参謀もほとんど重傷を負っている。何もかもわれわれ軍人の責任だ。みんなは恨んでいるだろうなあ」とかれの手を強く握った。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書)
当時広島市の配給課長だった浜井信三さんは7日、二葉山に向かった。第二総軍司令部から市内主要官庁に集合の指令が出たのだ。
二葉山についてみて、山腹にたくさんの防空壕が口をあけているのを初めて見た。指定された壕に行ってみると、一番奥に偉いらしい軍人が大あぐらをかいていた。(浜本信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト)
浜本さんによると、この会合では今後の対策として結局「何はおいても市民の士気を鼓舞しなければならない」ということで布告のビラを貼ることを決めただけだったという。
小倉豊文さんも8日に布告のビラを見ている。そして小倉さんは布告の最後に「広島警備司令官 船舶司令官」とあるのが目についた。「第二総軍」や「中国軍管区」ではなく「憲兵隊」でもない。小倉さんは思った。
やっぱり在広陸軍の壊滅か。(小倉豊文 同上)
当時の広島県知事による報告によると、8月7日の会合では次の事項が決定されたとある。
臨機ノ措置トシテ第二総軍司令官カ広島市ノ警備復旧ニ関シ広島県知事及広島市長在広島陸海軍ヲ区処スルコトニ決定 即日之カ権限ハ船舶司令官ニ移譲サレ…(広島県知事「八月六日広島市空襲被害並ニ対策措置ニ関スル件(詳報)」『広島県史』原爆資料編)
第二総軍司令部は、壊滅した広島において、形の上では軍隊だけでなく県や市までも指揮下において軍政をしくことになった。しかし、その権限はただちに宇品の船舶司令部司令官に移譲されたのだ。第二総軍は事実上、この時点で終わった。