第二総軍司令部の人員は約400人といわれる。その中には女学生も60人ばかり含まれていた。
第二総軍(畑司令官)の暗号班に動員された女学校四年生菊組二十名が藤の茶屋に集まる。私はその引率教官であった。我等のオアシス藤の下で隊伍をととのえ、もんぺ姿も凛々しく歩調をとっていつもの様にぎっしり並んだ兵士の右端に一列で朝礼の位置についた。それは又最後の朝礼でもあった。(秦政子「第二総軍に動員された学徒」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った級友の25回忌によせてー』)
当時本庁舎2階で無線通信の業務に就いていた森友祐正さんによると、司令部では24時間体制で大阪、福岡と通信していた。(森友祐正「核廃絶への思い」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
第二総軍の下には大阪市に司令部があって近畿・中国・四国の軍を指揮する第15方面軍と、福岡市に司令部があり九州地方の軍を指揮する第16方面軍がおかれていた。その通信は当然暗号だったろうから、解読業務が欠かせない。それに女学生が動員されたのだ。
動員された生徒は秦先生によれば比治山高女4年生が20人、7月には約40人の広島女学院2年生も送り込まれた。秦先生は自分の生徒の働く姿は機密ということで見せてもらえなかったが、控室の隣で暗号解読の訓練を受けている女学院の生徒の様子はうかがえた。
本館からずい分はなれた別棟平屋の控室、その控室は時々倉庫のかわりにもなるらしい。隣の部屋へ女学院の一年生(ママ)が動員されて、毎日数学の書き方練習でもしているように見えたがその内容はだれにもわからなかった。(秦政子 同上)
その中には今核兵器廃絶を世界に訴えているサーロー節子(旧姓中村)さんもいた。
暗号で送られてくる情報は、それだけでは何を意味するのかさっぱり分からない。コード表を見ながら、足し算や引き算をして素早く言葉に置き換えていく練習だ。(サーロー節子他『光に向かって這っていけー核なき世界を追い求めてー』岩波書店2019)
その時は何の疑問も持たず必死で技術を身につけていた。けれど後になってサーローさんは思う。
日本はこんな重要な機密任務を、地方に住む12、13歳の少女たちに任せるしかないほど、無謀で愚かな戦争を開始し、やめる決断もせず、貴重な人命を無駄にしたのである。(サーロー節子 同上)
8月6日。第二総軍司令部は爆心地から1.8kmのところにあった。当時司令部に勤務していた賀川智子(旧姓 久都内)さんは掃除で建物の外に出ていた。
その時、猛烈な閃光が、ピカット、光った。空が急に明るくなって、熱い熱風がサァッと私の顔、体を押します。爆風は勢があり、次第次第に私は小走りになっていました。足を止めようにも足が止まらない。爆風に体をまかせ熱いと思っても言葉にならない。どうしたのか?と後方を向きたいけど向けない。それほど強い熱風でした。(賀川智子「原爆手記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)
香川さんは一命をとりとめたものの、背中から手、足、顔にまでひどい火傷を負った。
司令部のいくつもの建物はすぐに崩れ落ちたようだが、本庁舎だけはしばらく持ちこたえた。しかしすぐに火の手が上がった。
司令部正面の二階には菊花の紋章が夜空にくっきり見えます。でも建物はもう長くはもちこたえること出来なく、黒煙がもくもくと立ちこめております。もう第二総軍司令部も駄目でしょう。皆避難しておられることでしょう。私は横になりながら菊花の紋章に心の中で手を合せ最後の焼け落るのを見届けました。 (賀川智子 同上)