軍都広島36~軍都の最期2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 国民義勇隊をつくることは、1945年3月23日の閣議で決定されている。その目的としては、「本土防衛態勢ノ完備ヲ目標トシ当面喫緊ノ防衛及生産ノ一体的飛躍強化ニ資スル」とし、原則「国民学校初等科修了以上ノ者ニシテ男子ニ在リテハ六十五歳以下女子ニ在リテハ四十五歳以下ノモノ」で組織することとした。要するに、男も女も、子どもも年寄りも、文句を言わずに仕事に励み、さらに交代で空襲に備える建物疎開作業に出かけていけということだ。

 実際に出かけたのは、男性はほとんど兵隊にとられているから、おのずと女性が中心となり、原爆に遭えば、「死んでいるのはほとんど女の人ばかり…」(半井良造「劫火」『広島原爆戦災誌 被爆者救護活動の手記集(暁部隊)』)ということにもなってしまう。

 中国新聞社では6月に社長を隊長として中国新聞社国民義勇隊を結成した。総員364人で三個中隊、九個小隊、三十個分隊と軍隊式の編成が行われた。いざ「本土決戦」というときには命令により兵隊として戦うことが強制されたのだ。

 3月23日の閣議では国民義勇隊について次のように定められている。

 

 状勢急迫セル場合ハ武器ヲ執ツテ蹶起スルノ態勢ヘ移行セシメン…(「国民義勇隊組織ニ関スル件」)

 

 これにより6月22日に「義勇兵役法」が公布された。「義勇兵」は男性が15~60歳、女性が17~40歳となっているが、それ以外でも「志願」すれば採用されることになっている。これこそ「国民皆兵」だ。もっとも、武器を持たない兵隊ではあるが…。

 

 軍に余裕があればこれらの者に手榴弾を支給するが、平素は竹槍や手持ちの武器で訓練を続けなければならぬ…(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 大佐古さんは6月15日の日記でこう書いている。

 

 鈴木首相が施政方針演説でいったように「本土決戦はわれに有利」だとする戦局観が軍と政府を支配し、民族総突撃の時機は刻々と迫ってきた。(大佐古一郎 同上)

 

 しかし竹槍による「民族総突撃」なるものが、いかに無謀なものか、口にできた者が果たして一人でもいただろうか。

 

 だれもがひたひたと上げ潮のように打ち寄せてくる敵の戦力を身近に感じていながら、敗色濃厚な戦局を口にしない。自衛隊とか義勇隊に繰り込まれているお互いの立場や、憲兵と特高警察をいつも意識しているからだ。(大佐古一郎 同上)

 

 これは8月6日に日付が変わった深夜、広島に空襲警報が出た時に思ったことを後に回想して書かれたものだ。

 原民喜は戦後に書いた小説「壊滅の序曲」の中でこうつぶやいている。

 

この戦争が本土決戦に移り、もしも広島が最後の牙城となるとしたら、その時、己は決然と命を捨てて戦ふことができるであらうか。……だが、この街が最後の楯になるなぞ、なんといふ狂気以上の妄想だらう。(原民喜「壊滅の序曲」)

 

それでも組織と命令にがんじがらめに縛られて、そして誰から見張られているか分からないという不安と恐怖の中、やはり言えないだろうなと思う。そして、何も言えないまま、多くの人が死んでいった。