軍都広島33~小網町2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

小網町の慰霊碑

 阿部タマ子さんの妹の小西ノブ子さんは千田町で被爆し、草津町に戻ったのは8日だったようだ。

 

 ドスンと船が砂をこすって浜に着いた。私の生まれた町である草津であった。足早に町を通りぬける私の眼に、戸ごとに貼り出された「忌中」の札が異様であった。(小西ノブ子『地獄絵―草津南町国民義勇隊全滅の記録―』田螺社1982)

 

 タマ子さんは、タマ子さんのお母さんが懸命に看病した。

 

祖母が娘のために看病に来て下さり、きゅうりをすりおろし、かきがらの粉を入れ湿布し、柿しぶが火傷にきくといって脱脂綿にしませて口にしぼり入れたり。一睡もしないで貴女を看病して下さいました。(下田禮子「天国の母に」NHK広島「ヒバクシャからの手紙」)

 

そのせいか火傷も痛まなくなり、お粥も「おいしい、おいしい」と食べていたのだが、7日夜、スヤスヤと眠ったかと思うと、そのまま息絶えていた。

亡くなったタマ子さんに着物だけは新しいのを着せたが、棺はなく火葬場も満杯なので、家のイチジク畑の片隅に木を組んで焼いた。ノブ子さんが家に着いた時には、姉の遺体を焼く煙がもうもうと立ちこめていたという。あとにはタマ子さんの夫と3人の子どもが残された。

堀憲義さんは7日も朝早くから奥さんの政子さんを探して歩いた。が、どこにも見つからない。家で留守番をしていたのは国民学校4年生の義嗣君と1年生の幸子さんだ。

 

義嗣は「お母さんは見付からなかったの?」と聞く。身を切られるようにつらい。「まだこれから探しに行くよ。しかし若しかしたら見付からないかも知れん」と言ったら、義坊は部屋の隅の方にうずくまってシクシク泣き出した。その姿を見てああ何と可哀そうか。お母さん思いの義坊がいかに悲しくつらかろうかと思ったら、もうたまらなくなって義坊を抱きしめて男泣きに泣いた。声をあげて思いきり泣いた。(堀憲義「私の原爆体験記」小西ノブ子『地獄絵―草津南町国民義勇隊全滅の記録―』田螺社1982)

 

幸子さんも火がついたように泣き出した。3人は抱き合って、心の底から泣いた。

8月19日には2人の子どもを自転車に乗せて小網町まで連れていった。何か遺品はないかと探したら、寿座のあった場所で見覚えのある水筒や弁当箱の蓋などが見つかった。

義嗣君は、「お母さんのお骨がないから、これでお葬式するんだね」という。堀さんは涙がこみあげてきて、ただうなずくことしかできなかった。

草津南町国民義勇隊で亡くなった阿部タマ子さんや堀政子さん、近所の人たち24名の合同慰霊祭が9月8日におこなわれ、10月6日には堀さんの三重県の郷里で政子さんの葬儀を執り行った。政子さんの遺品は堀家の墓地に埋められ、その上に観音菩薩の石像が置かれた。

広島市北郊の川内村では8月6日の建物疎開作業の動員で75人の妻が夫を失ったが(神田三亀男『原爆に夫を奪われて』岩波新書1982)、広島市の草津町では120人の妻そして母親の命が奪われた。堀さんは二人の幼子にかたく誓ったという。「お母さんが死んでもお父さんは必ず二人を守ってやる」と。