街の記憶41~比治山橋1 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

比治山橋と前方は比治山

 当時江波山にあった広島管区気象台の「広島原子爆弾被害調査報告」(1947)によると「火災は爆発5分経過してから、市中より転々と煙が立ち始め、爆発30分後には既にかなり大きな火災群を舟入町、天満町、国泰寺方面其他に見るに至り」とある。

 

市内中心部はすぐに火の海となった。被爆してなお動ける人は、それこそ四方八方へ、火に追われて逃げた。南なら広島赤十字病院、さらに御幸橋を渡って陸軍共済病院。東ならば鶴見橋や比治山橋を渡って比治山に向かった。

広島一中1年生の藤野博久君は生前お母さんにこう言っていたという。

 

僕らは空襲の時は比治山へ逃げるんだよ。この間練習があったけど、きつかった、きつかった(藤野としえ「星は見ている」秋田正之編『星は見ている』平和文庫2010)

 

広島一中の倒壊した校舎の下から脱出した生徒は火から逃れて東側から敷地の外に出て、そこから南に御幸橋のほうに向かった生徒もいるが、当時一中1年生だった片岡脩さんは、多くは比治山に向かったと証言している。片岡さんも全身火傷の友二人を肩に支えて比治山をめざした。

 

身にまとう物さえ何一つない腫れ上った母親が、火傷と傷でもう息の絶えている子供を固く抱きしめて、狂気の如く叫びながら走って行く。暗紫色に腫れ上った体を、道路の両側の溝、あるいは防火用水の中に浸したまま死んでいる学生、そして女。倒壊した家屋の中から首から上だけ出して、助けを求めて叫んでいる人々……。

これを見た時、私は戦争の正体に戦慄した。(長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえー』岩波文庫)

 

片岡さんたちは比治山橋のたもとで救援隊のトラックにひろわれた。

一中のそばの雑魚場町で建物疎開作業中に被爆した広島女学院2年生の愛宕尚代さんも比治山橋の西詰にたどり着いた。

 

橋の袂が輸送路になっているらしく、時々トラックが来て止まった。消防団員の指図で、通り掛かりの人たちが乗り込んでは発車して行く。私はそれに乗れなかった。乗れば家から、ますます遠ざかる気がして乗れなかった。(愛宕尚代「四次元の炎」広島女学院同窓会『平和を祈る人たちへ』2005)

 

愛宕さんの家は広島の西の己斐町。結局、愛宕さんがたどり着いたのが陸軍被服支廠だった。比治山橋を渡って800mほど行ったところである。

 御幸橋は架け替えられたが、比治山橋は爆風で南側の欄干が全部川に落ちたものの、本体はあの時のままだという。しかし被爆橋梁などというものを私も今までよく知らなかった。

広島の当時七つの川に架かり原爆に何とか耐えた橋は数えてみると40ほどあった。けれど9月の枕崎台風や10月の大雨で多くの橋が流され、その後の架け替えや廃止もあって、今に残る橋は栄橋、猿猴橋、荒神橋、京橋、そして比治山橋の五つしかない。

比治山橋まで行ってみた。説明版も何もない。ただ橋の上を人や車が通るだけである。

橋にしても建物にしても、そこにあるだけでは誰もそこであったことに気づくことはない。伝える営みがあってこその被爆建物、被爆建造物なのだと思う。