街の記憶22~旧日本銀行広島支店の場合6 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 

爆心地から500mの白神社にある被爆樹木クロガネモチ

 広島富国館の4階で原爆に遭った徳清広子さんは暗闇の中をなんとか1階まで降りて外に出た。外もまだ真っ暗だったが、すでに周囲は火の海で、その炎に照らされて目を疑うような光景が浮かび上がった。

 

 足や手のもげた人、頭のめげた(つぶれた)人、それから、喉からドブ(内臓)がとび出ている人、それをひこじって歩く人もいたんです。そういうのがねえ、いーっぱい炎の明かりで見えるんです。(NHK広島局・原爆プロジェクト・チーム『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』日本放送出版協会1986)

 

 原爆が広島の上空600mのところで炸裂し、火球が出現した。

それは炸裂から0.2秒後に直径310mの大きさにまでなり、そのときの表面温度は6000度と推測されている。(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)

真下にいた人たちからすれば、それは、太陽が覆いかぶさってきたようなものだったに違いない。

強烈な熱、猛烈な爆風、そしてすでに目に見えない放射線が身体を貫いていたが、瞬間の死を免れた人はそれでも本能的な生の欲求に突き動かされ、助けを求めてもがいていた。

必死で逃げる徳清さんの足をつかんだ人がいた。

 

その人は人間の格好してなかったですよ。真っ赤なダンゴみたいに丸くなってね、ズルむけて。炎に照らされて見えたんです。その人が引っぱったんです。助けてくれって。ドロドロのねえ、その人が……(『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』)

 

それでも徳清さんは逃げた。逃げこんだのは日本銀行広島支店の南隣にあった国泰寺の墓地だった。

日銀広島支店の建物の3階にあった広島財務局から平岩好道さんも同じ国泰寺の墓地に避難し、燃える日銀を眺めた。

日銀の前に焼け焦げた市内電車が残る写真を平和記念資料館のデータベースで見ることができる。この電車にも体験談が残っていた。

大塚宗元さんは当時宇品にあった船舶砲兵部隊の小隊長だった。8月6日、宇品から市内電車に乗って市内中心部に向かい、横目で白神社(しらかみしゃ)を確認したところで原爆に遭った。大塚さんはまだ走っている電車から飛び降りた。

 

…電車がそのまま走ってたんですが、この車体がこのまま燃え上りました。ワァーッと。あのビャッコウ、真白い光で全体がヴォーッと燃え上がったんですよ。で、燃え上がったまんま走ったんです。(『ヒロシマ爆心地―生と死の40年―』)

 

真っ暗闇の中を白く燃えながら走る電車。その瞬間、大塚さんは「地獄の火の車」を思った。

市内電車は日銀の前で止まり、その炎が3階の広島財務局直税部の窓から中に入るのを平岩さんは見た。中には何人もの同僚がまだ倒れたままのはずだった。